建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

「キリスト者の希望」を出版して

2002講壇(2002/5/5)

キリスト者の希望」を出版して

 やっと念願が実現しこの本ができあがったという思いである。多くの人々に読んでいただければ幸いだ。書きたいことはすべて本の中で書いたと考えてはいるが、強調したいポイントについて述べてみたい。
 旧約に関しては「アブラハムの試練」と「ヨブ記」については、何としても書きたかった。絶望のテーマについてはエレミヤ書にでてくるが、こちらは書けなかった「あとがき」参照。
 十字架上のイエスの叫び「わが神、わが神、どうして私をお見捨てに」についての解釈にも力を注いだ。特にゴルヴィッツアーの解釈には打たれた。
 本書の特徴は何といっても「イエスの復活とキリスト者の復活」を大きく扱った点にある、本書の半分、五、六、七、八章、一七八ページを当てている。そして福音書の復活記事ルカ二四章の弟子たちへの復活頭現およびヨハネ二〇章のトマス、マグダラのマリアへの復活顕現を解釈的に解明して、それをパウロの復活伝承と対峙させ、かつパウロのものとの相違点をふまえつつ、正典聖書の相異なる復活論として位置づけたことである。周知のように、従来パウロの復活論のみを重視して、先のルカ二四、ヨハネ二〇章を聖伝とみなして無視する傾向があったが、それを批判したのだ。
 復活させられたイエスの身体性を表現するのに非地上的な「霊的な体」(パウロ)ばかりではなく、「肉と骨をもった、肉体」(ルカ)をも正当に評価した。このポイントは教会史的には二世紀以後、ギリシャ教父たちの場合は圧倒的にパウロの霊的な体を、三世紀以後のラテン教父たちはルカの肉体の復活論を採用したという(べルコフ「キリスト教教理史」)。後二七〇年以後の「使徒信条」が「からだのよみがえりではなく、肉体のよみがえり」を唱え、かつ宗教改革の「ハイデルベルク信仰問答」(一六世紀)「肉体の復活」を唱えた事実を私たちは重視すべきだと考えた。とにかくルカの「肉体の復活」との格闘、復活のテーマにおいてはこれにつきるようだ。
 本書では「キリスト者の復活」にスポットを当てた。しかも「日本の先達のキリスト者」たち内村鑑三や藤井武らを取り上げた。従来の日本の教会からこのテーマが脱落してしまった観があるからだ。聖書解釈の歴史をたどってみると、パウロのピリピ一:二三「世をたち去ってキリストと共にあることへの切望」について正しく解釈されたのは二〇世紀半ばになってからであった(クルマンら)。
 このテーマよりももっと希薄のものと化したのが「キリスト来臨への希望」である。これについては八章を参照してほしい。たった二〇ページしか書けなかったが、次の課題はまさしくこれだという思いはある。特に内村と中田重治の再臨論を現在の日本のキリスト者は何としてでも取り組むべきだ。再臨運動の一〇〇年目が、あと一六年後にやってくるが、それまでに各々が共同して研究してもよいテーマである。中田重治の再臨論に目を通してみて、やはり中田は傑物だという印象を受けた。教派的には分裂したところの聖教会のリーダーのひとり米田豊の息子・米田勇氏の「中田重治伝」(一九五九初版)を入手して再臨運動以後の後半生を読了した。ホーリネス教団の分裂のきっかけとなった中田のユダヤ人のシオニズムへの肩入れの理由がいまひとつ判明しなかったが、中田は個人の救いから逸脱して、当時ナチス・ドイツや日本軍国主義の底流にあった「民族意識の高揚」の風潮に押し流されたのかとも考えた。