建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

パンフレット「死の中で神に出会う」はじめに

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-


はじめに
 このパンフは死についての連続説教をまとめたものである。これまで2年ほど「死について」礼拝で聖書を学んできた。
 その過程で、死について、広い視点からのアプローチは、必ずしも必要ではないと私たちは考えた。パンネンベルクの「組織神学」(第2巻、1991)などをみると、20世紀の代表的な哲学者、ハイデッカー、サルトルの死の理解も取り上げていて、さすがと思ったが、私たちにはこのようなアプローチは不要であると思った。
 それにしても、これまで「死」についての研究の歴史をみると、きわめてその文献が少ないのに気づく。 古代ギリシャの哲学者プラトンの「パイドン」「ソクラテスの弁明」はそれ自体では取り上げる必要はないが、古代ローマ神学者アウグスティヌスの死の理解(「神の国」、後430年)との関連では問題になるようだ(省略)。またソクラテスが語ったとされる「汝自身を知れ」は、実は哲学的自己省察一般について述べた言葉ではなく、むしろ人間が死ぬべき存在であることに思いをいたせ、という意味であることも今回改めて教えられた一つである。ユンゲルはその著書「死」において、ギリシャから出士した古代のレリーフ、黒地に白い骸骨が長い手を伸して指さす、グノーテイ・セアウトン〔汝自身を知れ〕の写真を掲載しているが、これを見て私は衝撃を受けた。
 私たちの問題意識には「今は亡き人と生きている私たちの関わり」というテーマがあった。キルケゴール(19世紀、デンマークの思想家)は「今なお生きている者が亡き人を愛するとは、その人のことを決して忘れないことだ。ことあるたびに思い出すことだ」と述べている(「愛の業」)。ガブリェル・マルセル(20世紀、フランスの哲学者)は6歳で母と死別した。亡きこの母と自分との関わりを問うことが、自分の生涯のテーマとなったと「自伝」で語っている。彼は述べている、その人が亡くなったからといって、その人を愛することをやめてしまうのは、愛することに絶望した人の行為である。愛する人は別の言い方をする、「私があなたを愛するということは、あなたは永久に死なない、ということだ」と。ここで「あなたは永久に死なない」は、《相手の存在が不滅であるという意味ではない。 むしろ今は亡き相手との絆が不滅である》、私はあなたとの愛の絆を不滅のものとする決意だ、という意味である(「現存と不滅」)。
 聖書における死の理解で難かしいのは、第一に、「罪の報酬としての死」と「被造物性としての生命の終わりとしての死」との《区別を明確に把握すること》である。
 第二に難しい点は、イエス・キリストの十字架の死を「罪の贖い」の視点だけでとらえないで、「私たちの死からの解放としても把握する」ことである。
 第三に、福音書における「受難予告の箇所」(イエスはあらかじめご自分の死の運命を知つておられて、前もってそれを弟子たちに予告された箇所)は、礼拝では取り上げたが、テーマが難しくここでは省略した。
 礼拝で語った分量はもっと多かったが、ここでは約3分2ほどに圧縮した。
 私たちは、旧・新約聖書が死をどのように表見しているか、を探求してきたが、これさえ明らかになれば十分である、と考えた。

                                                                            2005年7月
参考文献
カール・バルト「教会教義学」創造論]Ⅲ/2 第47節の5
「終わる時間」(1948、吉村正義訳参照。引用箇所は必ず原文に目を通した。この死のテーマをどのように把握し表現するかの作業は、バルトの見解との格闘でもあった。現代の代表的な神学者の一人パンネンベルクは、バルトの死についての見解を全体的に受け入れている)。

②E・ユンゲル「死」(蓮見和男訳、1971)。

③W・パンネンベルク「キリスト論要綱」
(第7章、イエスの死の救済的意義について、1964)。

④W・シュラーゲの論文
新約聖書におけるイエス・キリストの死の理解」。

⑥塚本虎二の葬儀説教集「死に勝つ」 はこの種のものの白眉である。繰り返し読んだが私は打たれた(初版1935、1992年第9刷のロングセラー)。

⑦ルター「詩篇九〇篇の講解」(1536、金子春勇訳)。この文献はキリスト教史の碩学・石原謙氏が死ぬまで「座右の書」としたもので、そのつもりで目をとおした。


本文中、『』は引用における原著者の強調。《》は筆者の強調、あるいは重要な内容と考えた箇所の強調。()〔〕は小コメント。
 前回は、信教の自由をめぐる近代教会史「心の中ばかりで信じること かないません」(A5版32ページ)を印刷・配布した(2002年11月)。2年に1冊程度出したいと願ってきたが、それからもう3年もたってしまった。前回のパンフは表紙が少し厚すぎて体裁がよくなかった。今回はもっとよいものにしたい。

 

 

目   次

はじめに
Ⅰ 旧約聖書における死についての見解
  死の定義
   人が死ぬ理由
   すべての人が死ぬ
  死者は神ヤハウェから切り離される
  生命を超えるもの
  幸せな死を迎えた者たち
  特別な生命の終焉一エリヤ、モーセの死
II   新約聖書における死の理解
  「第二の死」の視点
  キリストの十宇架の死
  エマオの弟子たち
   苦難の僕
   木にかけられた方
  贖罪の場所
   贖い金
   父によるみ子の放棄
  み子のご自分の引き渡し
   バルトの死の見解
  眠りとしての死
  死からの解放
   被造物性としての死
  被造物性へのパウロの見解
   被造物性へのバルトの見解

Ⅲ ルターの死についての見解
  「死に対する準備についての説教」
   贖罪論
    「詩篇90篇講解」

Ⅳ  死の中で神に出会う