建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における死の理解ー3

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅰ 旧約聖書における死の理解ー3

地上的な生命を超えるもの
 旧約聖書にも私たちが一息つけるような箇所がある。
 詩63:3「あなたの恵みは、生命にまさる」。ここでは神ヤハウェとの絆、交わりは、神の真実のゆえに死によっても断絶されることがない、との静かな確信が表明されている。
 詩49:15「神は私の生命を救い出し、さらに私を死者の国から《取り去ってくださる》」。「取り去る」は、自分を陰府から地上の世界へと救出するという意味ではない。むしろ陰府でも地上世界でもない第三の、別の、神との交わりが成立する領域へと《移行してくださる》との意味である。
 詩73:23~24「私は常にあなたと共にある。あなたは私を右手で保ってくださる。あなたは御計画どおり、私を導いてくださり、その後私を栄光へと《取り去ってくださる》…たとえ私の肉と魂が滅びようとも、神は常に私の《分け前》である」。ここでも「取り去る」は旧約学者ラードによれば、ヤハウェによる《別の、栄光ある神領域への移《》の意味で、旧約聖書はエノク、エリャの例をとおしてこのような「移行・携挙」を知つていた。「分け前」は神ヤハウェとの、死によっても破壊されることのない強靭で強固な絆の意味である(フオン・ラード、前掲書)。

幸せな死を迎えた者たち
 旧約聖書は5人だけ、いわば例外的に「祝福された死」を迎えた人物をあげている。
 「アブラハムは善き老年期に至り、老いて年が満ち、息を引き取り死んだ」(創世25:8)、「イサクの全生涯は180歳であった。
イサクは息絶えて死んだ。 すなわち年老い、 よわい満ちてその同族に合わせられた(35:28以下)、「ヨブは老いて、年満ちて死んだ」(ヨブ42:17)、歴代志上29:28「ダビデは高齢に至り、年も冨も誉れも満ち足りて死んだ」、歴代志下24:15「(祭司)エホヤダは年老いて、年が満ちて死んだ」(エホヤダは南王国のヨアシを王位につけ、後見人として活動。バールの祭壇をこわしヤハウェ信仰を復興させた祭司)。

 

特別な生命の終焉ーエリヤ、エノク(省略)、モーセの生涯の終焉
 旧約聖書はこれらの三人だけ、通常と異なった生涯の終焉を迎えた。
預言者エリヤ
 エリヤは、前860頃、北王国で活動した、イスラエルの最初の預言者である(「キリスト者の希望」68以下)。エリヤはエリシャを自分の後継者とした、列王紀上19:l9以下。エリアの「生涯の終わり」は、弟子エリシャの派遣、権威、力が直接的に啓示される形をとっている。眼目となるのはエリヤの生涯の終わりが《死という形ではなく、死とは異なる形の生の消滅であった》という点である。「エリヤの別離はエリシャの日の前で、エリヤの死すべきものがその生に飲み込まれてしまったということである」(バルト前掲書)。エリヤのこのような終焉をエリシャや他の弟子たちは知っていたようだ。彼ら二人がヨルダン川のほとりに立った時、「エリヤは外套を取ってそれを丸めてそれで水を打つと、水は二つに分かれたので、二人は乾いた土を歩いて渡った」(列王下2:7~8)。エリシャは師に向かって懇願した「どうぞあなたの霊の二つの分を私に与えてください」。エリヤは答えた「もし私が《取り去られる》のをあなたが見るならば、その願いはかなえられ、そうでないならば、願いはかなえられない」(列王下2:9~10)。
 二人が進んで行くと「火の馬に引かれた火の戦車が現れて、二人を分けた。エリヤは風の中を天に上っていった。エリシャはこれを見て叫んだ、わが父よわが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。しかしもうエリヤは見えなかった」(列王下2:11~12)。「ここでの眼日はエリヤが(陰府に下ったのではなく)火の馬、火の車に乗せられて天に上ったということ、エリヤの別離、彼の時間的な終わりである。ヤハウェご自身がエリヤの生の内容と目標として、またエリヤの生の終わりとして登場なされた、という点である」(バルト)。エリシャは自分に与えられたエリヤの外套を取り上げさえすればよかった。エリシャの仕事は今こそ始まる。彼はその外套でヨルダン川の水を打ち「エリヤの神はいずこにいますか」と叫んだ。すると水は二つに分かれたので、彼は渡った。エリシャはエリヤの霊を受け継いだのだ(列王下2:13以下)。エリヤが行った奇跡(8節)をエリシャも行った(14節)。ここにエリヤの神がいましたもうたのだ。