建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解-1

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解

「第二の死」の視点
 新約聖書における死についての見解の特徴は、周知のように、イエス・キリストの十字架上の死が中心にすえられている点にある。「新約聖書の認識の中心は、イエス・キリストの十字架の死の中で遂行された神の裁きである」(バルト、前掲書、736)。
 新約聖書が死の理解において旧約聖書と異なる点はどこであろうか。冒頭で言及したように、旧約聖書は死を黙示録のいう「第二の死」人間の滅びの視点でみていたが、この視点を新約聖書も受け継ぎ、それどころかさらに先鋭化させている面があるようだ。
 ルカ16:19以下の「金持と乞食ラザロの譬」
 ここでは、両人の死後の状況が語られ、乞食ラザロには葬儀をやってくれる者もいなかったが、「天使たちからアブラハムのふところ(死後の祝福された場所)に連れていかれた。他方金持のほうは「黄泉〔よみ〕で苦しみながら、ふと日をあげると、はるか向こうにアブラハムとそのふところにいるラザロが見えたので、声をあげて言った『父アブラハムよ、どうか私をあわれと思ってラザロをよこして、指先を水にひたして私の舌を冷やさせてください。私はこの焔の中でもだえ苦しんでおります』。しかしアブラハムは言った『子よ、考えてごらん、あなたは生きていた時に善いものをもらい、ラザロは反対に悪いものをもらったではないか。だから今ここで彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。そればかりではない。私たちとあなたたちの間には大きな深い裂け目があって、ここからあなたたちの所へ渡ろうと思ってもできず、そこから私たちの所へ越えてくることもできない』。……」(塚本訳)。金持の黄泉〔よみ〕における苦悶の様子は、中世以来カトリック教会の説いた「煉獄での自分の身内の苦悶の姿」(これが周知のように「免罪符問題」、ルターがカトリック教会に向かって出した「九五ヵ条の提題」の背景であった)を彷彿とさせる。この箇所にとどまることなく、新約聖書では旧約聖書よりも徹底し、先鋭化させて死のもつ永遠の滅びについて語られていることは確かである。
 マタイ22:1以下の「王子の結婚披露の譬」、またマルコ9:42以下、さらに黙示録14:9以下など、新約聖書は人間の死に関して「第二の死・永速の滅び」という見解に固執している。

人間の死ぬ理由
 聖書の見解によれば、人間は神の戒めに逆らって罪を犯したから、神からの刑罰として死ぬ、のである。パウロは述べている、人間の死を人間が犯す罪と関連づけて「アダムの罪をとおして死がこの世に入り込んできた。こうしてすべての人が罪を犯したので、すべての人に死が入り込んだ」(ロマ5:12)、「罪の報酬は死である」(ロマ6:23)。死の問題は人間の罪が赦されることによってしか解決しない、と聖書は述べているのだ。
 「神はこの一人の人間イエスの中ですべての者に対するご自分の愛、すべての者との連帯を証明なされた。神はこの一人の方の中ですべての者の罪と咎とをご自分に引き受けられて、彼らすべて者から罪と咎を取り除き、彼らすべての者が当然受けるべき裁きから、より高い義をもって解き放ち、かくして神はその方の中で彼らすべての者の慰めとなられた。この方の中で神は死の直中で私たちの助け主、救い主でありたもう。なぜなら自分たちの罪と咎のゆえに死の中に落ちこんでいた《私たちの代わりに、この方は罪人、咎ある者となられてそれに見合うもの(刑罰、死)を受けて負債を贖われたことをとおして、私たちが死から解放されたということ、このことがまさしくこの一人の方の死の直中で出来事として起こったからだ》」(バルト、前掲書 746)。