建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー6

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー6

バルトの死についての見解
 (1)バルトは述べている、神と私たちとの間には、埋め合わせのできない底知れぬ罪過が立っている。神の前での負債(罪過)隣人の前での負債(罪過)。この負債とは「とどこおり」のことである。またこの「とどこおり」とは、神との関係、隣人との関係のなかで、神から私たちに与えられた《自由を用いなかたということである》。この自由を人間が拒んで用いようとしないままにいる、囚われの状態のほうを私たちが選んでしまうこと、神に反抗すること、非人間的であることへと落ちこんでしまうこと、それが「とどこおり」である。そしてこのことが、私たちが負債〔咎〕があるということ、すなわち、そのことが『私たちの時間の終わり、私たちの死の中で、私たちに逆らって前にあることである』。詳言すれば、再び回復しがたいこの「とどこおり」の中で、私たちは存在から、非存在へと移っていくであろう」(725)。
 (2)私たちに、終わり、非存在がくるということは、ほかでもなく、《神の判決》とそれが執行されることを意味する。そしてその判決は、私たちの生が終わるということだけではなく、この生が創造主の目から《しりぞけられ捨てられること》を意味する。すなわち私たちの生が自分でなしたことの確認として抹殺され、片づけられること、破棄されることを意味している(724)。
 (3)死は《神の審判》のしるしである。死は確かに私たちに出会うが、それも罪深い、咎(負債)のある人間に出会うからだと、バルトは述べている。「人間は神の被造物として与えられた自由を用いて神の前で生きることが許されていた。にもかかわらず、人間はこの貴重な自由を用いないで、むしろすっかり濫用してしてしまった」(727)。死が出会う罪深い、咎のある人間とはこのような人間である。死は、単に運命といったものではなく、むしろ神から来る、神によって受け取られた定めである(バルトは明らかに、死を人間存在のたどる自然的な定めとはみていない)。
 (4)バルトは述べている、人間存在に終わりがあるということは、事実人間が咎あるものであるという影の中にあることを示している。私たちは死においてただ死と対峙するだけではなく、また《神とも対峙させられる》。この神は私たちに義をもち、私たちのほうはこの方に不義しかもっていないのだが。神は死において私たちが神に対して負うたままになっていることの回収をなされること、私たちが儲けたものを支払うようにと脅したもう。
 (5)死は決してそれ自身の力をもった主権者ではなく、神がその被造物に相対して正しくありたまい、《被造物が神に相対して正しくない場合にのみ死は支配する》。神が人間と、人間が神と争う空虚な領域で死は支配する(740)。
 私たちが終わってしまうところで、私たちを待っているのは、死ばかりではなく《神もまた待つておられる》(740)。真に恐れるべき存在は、死の中での死そのもではなく、むしろ死の中で神こそ恐れられるべきである。「そこのところで、私たちは死とだけ関わり合うのではなく、神とも関わりあうようになる」(740)。
 (6)「イエス・キリストなしには、私たちは死の中で神の審判のしるしの中に立つばかりでなく、救いようもなく、滅び失せることになろう」(748)。もし私たちの罪と咎がイエス・キリストの上に負わされなかったとしたら、私たちの罪咎はなおも私たちが負わされるであろうし、また《私たちの死の中で神に出会うとの慰め》は全くなくなってしまうことになるであろう。ただ《イエス・キリストにあってのみ、神は私たちの救助者、救済者でありたもう。なぜなら《イエス・キリストの死においてのみ、私たちの罪と咎からの無罪放免、また私たちの死からの解放が起きたからだ》」(748)。この箇所でバルトはキリストの死において《人間の罪の赦しと共に、同時に人間の死からの解放も生起した》と正しく把握している)。《イエス・キリストにおいてのみ、死が身にこうむられるばかりでなく、また《死が克服されたということが出来事として起こった。イエス・キリストにおいてのみ、死は私たちにとってすでに克服された敵として》だけ問題になってくる。イエス・キリストにおいてのみ、神は私たちを限界づける死の限界でありたもう。《イエス・キリストの中にのみ、私たちの希望、私たちの死の中でも、私たちの死の彼岸においても、私たちがもはや存在しなくなる時にも、すべてのことを期待することが許されるとの私たちの希望は、基礎をおいている》。まことにイエス・キリストは私たちの希望であり、私たちの未来であり、〔死に対する〕私たちの勝利であり、私たちの復活であり、私たちの生命でありたもう(740)。

眠りとしての死
 新約聖書キリスト者の、《自然的な死》を「眠り」と呼んだ。
 「私たちの友ラザロが眠っている」(ヨハネ11:11)。復活顕現に出会った500人以上の兄弟たちのうち「数人が眠りについた」、「キリストにあって眠りについた人々」(Iコリント15:6、20)、他にIコリント1:30、Iテサロニケ4:13、14、行伝7:60、13:36、Ⅱペテロ3:4など。
 教会史において死を眠りとして把握したのは、ルターである。「私たちはキリストが来られ、墓をたたいて、マルテイン博士、起き上がれというまで、《眠つている》。その時私は一瞬のうちに復活し、キリストと共に永遠に喜ぶであろう」(「三位一体後の第16聖日の説教」ほか、1533年。引用はモルトマン「神の到来」)。
 「目が閉じられるや、あなたはすぐによみがえらされる。千年たっていても、あなたには半時間眠っていたくらいにしか思われない。夜に時鐘を聞く時、どのくらい眠っていたのか私たちにわからないように、いやそれ以上に、死においては千年も速やかに過ぎ去る。人がまわりを見回す前に、人は美しいみ使いとなっている」(引用はモルトマン、「神の到来」)。
 「神のみ顔の前では、時の計算はないのであるから、千年も神の前ではあたかも一日のようであるにちがいない〔詩90:4参照〕。それゆえ最初の人アダムは、最後の審判の前、最後に生まれた者と同じくらい神の近くにある。…なぜなら神は時を長さにしたがってではなく、むしろ時を横切つて見られるからだ。…神の前ではすべてが《またたく間に》起こる〔Iコリ15:51〕」(モルトマン、前掲書)。
 死が眠りとして把握されることは、当然のことながら、イエス・キリストの死人の中からの復活を前提としている。この前提のもとでのみ、私たちの迎える死もその姿を変貌させるのである。この死の変貌についてルターは述べた『神のみ子イエス・キリストは私たちの代わりに来られて、罪を取り除かれた。それによって死からすべての権利と力を取り去られた。死の形をとどめるものは何もない。死はその棘〔とげ〕を失ってしまった。ハレルヤ』(引用はモルトマン、前掲書)。「死はもはや終わりではなく、むしろ復活への門である」(モルトマン、前掲書)。
 「自分の死の時点から、終末の死人のよみがえりまでどのくらい長くかかるのか。ルターはこの問いに対して地上の生きている者の時間をあてはめることをせずに、むしろ神の時について『またたく間に、一瞬にして』(Iコリ15:53)と答えた。死者たちがもはや生きている者の時の中にいないで神の時の中にいるとすれば、一人の人間の死から、終末時の死人のよみがえりの時まで、どれくらいの長さがあるか。答は全く一瞬である。私たちの時で測つてみて、死者たちは『今』どこにいるのか。人はこう答えなければならない、死者たちはすでに復活と神の永遠の生命との新しい世界にいると」(モルトマン、前掲書、Ⅱ永遠の生命、4節)。