建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー9

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー9

被造物的な生命の終わりとしての死についてのバルトの見解
 バルトは、「創造論」Ⅲ/2の最後の部分で(776-790)罪の報い・滅びとしての死ではなく、「別の死の形」《被造物的な生命の限界としての死》について述べている。
 Iテサロニケ5:10「イエス・キリストは私たちのために死にたもうた。それは私たちが覚めている時も眠っている時も、彼と結びっけられて生きるためである」、ロマ8:38「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはない」、ロマ14:8「生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものである」、ピリピ1:20「私が生きるにしても死ぬにしても、私の身をとおして公然とキリストがあがめられることを私は待望し切望している」。ーーこれらの箇所に基づいてバルトは解釈している。ここで生と死が両者に優越するイエス・キリストの支配という観点のもとで並置されている場合、『死』ということでもって、《敵としての武装した強力な死が理解されているのではなく、むしろ人間の生そのものの、近づいてくる終わりが理解されている》。
 バルトによれば、ヨハネ11:25「私は復活であり、生命である。私を信ずる者は『たとえ死んでも』生きる」は、イエス・キリストの復活と生命に人間が与ることに疑いをさしはさまない死が存在することを示している。さらにヨハネ5:24「私の言葉を聞いて、私を遣わされた方を信ずる者は永遠の生命を持ち、裁きを受けることがなく、死から生命に移されている」の箇所を、バルトは『死の中で死が廃止される出来事』として把握している。「この出来事は偶然に基づいて起こるのでも、人間に自由に処理できる可能性に基づいて起こるのでもなく、むしろ神の途方もない関与に基づいて起こるのだ。その具体的な形がイエス・キリストの出現、死、復活である。この事情のもとで《『第二の死』は廃止され》、『不自然な死』からのこの解放は、《他方では永遠の生命への解放であり》、明らかに、《『自然的な』死への人間の解放》をも意味している」。
 《人間の死ぬこと自体は、創造主の秩序に従って、その被造物の生命に属しており、また被造物にとって『必然的』である。アダム的な人間はプシュケー・ゾーサ〔生きた存在、Iコリント15:45〕となるべく創造された。それと共に、自分の時間、ただ自分の時間だけを持つ存在となるべく創造された。…人間の生の意味と目標としての、決定的に人間が神と共存することは、人間の生自体が限定されたもの、限界をもっことを要求している。この限界のところで、人間の味方なる神の決断がくだされた。
 この決断はすでに人間イエスの生の中でくだされた。イエスは神の裁きにご自分で服されて、それと共に神の義と人間の義を再び定めるために、死にたまわなければならなかった。
 ヨハネ12:24「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」、バルトは以上のように述べている。