建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ルターの死についての見解-1

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅲ ルターの死についての見解-1

ルターの「死に対する準備についての説教」(抜粋)
 ルターは死への恐怖を訴えるある信徒の依頼に応答する説教を1519年に出版した。翻訳は1948年に藤田孫太郎訳が出た(「ルタ一選集I」所収、24ページのもの)。
 まず興味深く思ったのは、この当時のルターがカトリック教会が従来から執行していた「死を前にしたサクラメント秘跡ーー懺悔・塗油式、聖体拝受(聖餐式)」の三つをいまだ拒否していない点である。
 しかしこのサクラメントを「無効にする人間の行為」が三つあると彼は指摘する。第一に、死の恐るべき姿。第二に、罪の戦慄すべきさまざまな姿。第三に、陰府と永遠的呪詛の耐え難い不可避的な姿。これらは人間に神を忘れさせ、やがては神への不従順に至らせると述べている。そのようなものに打ち勝つには、あなたは神の恩寵の中で死んだ人々、死を征服した人々、特にキリストとその聖徒たちの中で死を見るように、熱心に努力せよと彼は語る。そうすれば、死はあなたを驚かせるものでも、残忍なものでもなくなる。むしろ軽蔑すべきものとなり、死はなお生きるものではあってもすでに絞殺され、征服されていることを銘記すべきである。そうすれば死の恐るべき姿は消え失せるという。「今よりのち、主にあって死ぬ死者たちは幸いなり」(黙示14:13) とあるように、あなたの心は平安で満たされ、キリストと共に、キリストにあって安らかに死ぬことができる。キリストの死のみをあなたが心にとめるならば、あなたは生命を見い出すであろう。
 《十字架上のキリストがあなたの罪をあなたから除き去り、あなたの罪をあなたのために担い、これを無とするとは、まさしくキリストの恩寵であり憐れみである。このことを固く信じこれを疑わぬことは、恩寵の姿を見ることである》。
 あなたは確かになお、自分の中に自分の罪を見る。しかしあなたの罪はもはや罪ではなく、すでに征服され、キリストのうちに飲み込まれている。キリストはあなたの死が害とならないように、これを自ら担いこれを殺したもうた。キリストがこれをあなたのためになしたもうたことを、あなたが信ずるならば、キリストはあなたの罪を自らの上に担い、あなたのためにまったき恩寵によってこれを彼の義において征服したもうであろう。パウロはこれをこう言う「神を讃美し、神に感謝せよ。神はキリストにおいて罪と死の征服をわれらに与えたまえり」(Iコリ15:57)。
 ルターはさらにサクラメント秘跡)について論じる。従来カトリックでは、サクラメントとして、パンのサクラメント聖餐式)、洗礼のサクラメンの他に、悔い改め、告白(懺悔)、堅信(礼)、結婚、叙品(按手)、終油の「七つ」を定めていた(1520年に出たサクラメント論「教会のバビロン捕囚」でルターは聖餐式と洗礼について、全体の半分のページ数をさいている)。ルターは述べている、《もし人々が大胆にサクラメントを信ずるなら、彼は喜んで死ぬ大いなる理由が与えられる。なぜならキリストご自身は教職者を通して行われるサクラメントにおいて彼(教職者)と共に行い、また語り、活動する。そこでは人間の業、言葉は行われないからだ》。ここでは神ご自身がキリストにおいて語りたもうたすべてのものが、あなたに約束される。かくて神はサクラメントが真にそのしるしであり、その記録であることを欲したもうのである。《キリストの生命はあなたの死を、彼の服従はあなたの罪を、彼の愛はあなたの陰府をご自分の上に引き受けて、これを征服したもうたのである。サクラメントすなわち独りの教職者によって宣言される神の外的な言葉は、目に見える神の言葉であり、耳で聞かれる説教の言葉に付加されるのであるが、これは全く大いなる慰めである》。これはいわば神のみ心の見えるしるしである。このしるしはあたかも家長のヤコブヨルダン川を渡った時、持った「固い杖」のようなものである(創世記32:10)。また暗きにともる灯火のようなものである(詩119:105、Ⅱペテロ1:19)。そしてルターはいう、これ以外に死の困難に臨んで助けとなるものはないと。なぜなら支えられうるものはすべてこのしるしと共に支えられるからだ。あなたは罪と死と陰府に向かってこう言うことができる『キリストの生命は私の死を彼の生命において征服し、キリストの服従は私の罪を彼の受苦において根絶し、キリストの愛は私の陰府を彼の神信頼において粉砕したもうた。神はこの恩寵の確かなしるしをサクラメントにおいて私に約束し与えたもうた』と」。

 

ルターの贖罪論
 ルターは十字架を人間イエスの業としてではなく、むしろイエスをとおしての《神の行動》とみた。
 ルターはガラテヤ3:13「キリストは私たちのために呪いとなられて、私たちを律法の呪いから解放してくださった」について「ガラテヤ書講解」で述べている。「イエスは人類の罪をご自分の罪過として引き受け、受けねばならない刑罰として私たちのために苦しまれるという仕方で、十字架をご自分の上に負うたのである。イエスご自身は不安に陥れられ、〔神の〕永遠の怒りに驚愕した良心の恐れと戦きを味わいたもうたのだ」(引用はパンネンベルク「キリスト論要綱」Ⅱの7)。すなわちルターはこのようにイエスの死の意味を私たちに対する罪の裁きが彼をとおして遂行された、と認識したのだ。
 ルターは死を「眠り」と述べた、死を眠りと把握することは彼にとって二つの意味があった。キリストの復活をふまえると、一つは死は人間に対する力を失ったこと。もう一つは死はもはや最後のものではない点である。信仰者にとって死は確かになおも存続しているが、もはやその力をもってはいない。「死はもはや終わりではなく、復活への門である。…キリストはすでに永遠の生命に再生なされた。信徒たちもそれに続くのである」(モルトマン「神の到来」Ⅱの4)。