建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第一章 高木仙右衛門の抵抗 信教の自由を求める闘いー1

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

第一章 高木仙右衛門の抵抗 信教の自由を求める闘い

 日本には殉教の歴史がない、と評論家の加藤周一は語ったが、むろん例外もある。秀吉のキリシタン弾圧においては、戦国大名高山右近は国外追放、二六聖人の殉教もあった。長崎駅に近い丘には「二六聖人の殉教の記念碑」が建てられている。さらに幕末と明治維新の時期において幕府と維新政府によるキリシタン弾圧に最後まで抵抗し続けた、高木仙右衛門の例もある。高木仙右衛門の抵抗を取り上げたい。

 長崎の大浦天主堂は、 一八六四年にフランス人神父プチジャンらによって建てられた。幕末当時はいまだキリシタン禁制下にあったので、この天主堂はむろん欧米人のための礼拝施設であった。プチジャン神父は来日前、マカオで日本には「隠れキリシタン」がいる、と日本人漁師から聞いていた。そこで神父は来日以後、大浦の街をあちこち歩きまわり、馬からわざと落ちたり、子供らにお菓子をあげたりしてひそかにキリシタンを知らないかと探しまわったが、すべて徒労に終っていた。新築の天主堂は「フランス寺」と呼ばれて見物人が結構いたという。
 ところが一八六五年三月、一二人ほどの浦上の農民たちが、長崎奉行所の監視をあざむき見物をよそおって、会堂を訪れ、ドアを開けたプチジャン神父に、そのうちの一人の婦人がそっと告げた「私たちの胸はあなたの胸と同じでございます」。そして神父に「サンタ・マリアの御像はどこ?」と質問した。神父は即座にマリア像の前に案内した。発言したのは杉本ゆりというキリシタンの農民の婦人であった。神父がキリシタンを「発見した」瞬間であった。かくて多くの「隠れキリシタン」は進んでプチジャン神父の指導のもとで教義、祈りを習い、秘跡(聖礼典の聖餅)を受けた(片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」 一九七九)。大浦天主堂には今も「あのマリア像」が置かれている。想像していたものより小さな像でかわいらしい感じがした。また会堂の前庭にはキリシタン発見を表現した大きなレリーフがあり、プチジャン神父、杉本ゆりらの姿が形象化されている。

浦上四番崩れ
 一八六七・慶応三年四月、浦上の本原郷のキリシタンの一人が亡くなった。ところが家族は聖徳寺の僧侶立合いでの仏式の葬儀を拒否して「自葬」した。庄屋(例外的にキリシタンではなく、長崎奉行所の末端的存在)は幕府の支配構造の根幹、寺請制度を否定するものとして、本原郷の者に「聖徳寺と縁を切り自葬を願う者は名前を出せ」と命じたところ、浦上村民全体七〇〇戸が名を連ねた。これは「隠れキリシタン」が公然とキリシタンであることを表明した出来事であった。長崎奉行所は七月になって主だったキリシタン六七人を捕え投獄した。その中には高木仙右衛門、守山甚三郎らもいた。これが幕府による浦上のキリシタンに対する「四番」目の弾圧であり(「崩れ」とは弾圧に対するキリシタンらの集団的棄教のこと、「三番崩れ」は一一年前の一八五六年に起きた)通常「浦上四番崩れ」と呼ばれている弾圧事件である。
 幕府のキリシタン弾圧を知つた欧米の在日公使、領事らから強い抗議と釈放の要求が幕末の幕府当局に出された。彼らはキリシタンであるというだけで弾圧を加える幕府のやり方が、人道に背くものとみなし、信教の自由はキリシタン禁制という国内法に優先する自然法的人権である、と主張した。また欧米との国交をはかろうとする場合に、欧米諸国民が信奉しているキリスト教邪教として弾圧する政策は、国交上も上策ではないと主張した。そしてフランス公使は拷問を加えないとの同意を将軍慶喜から取りつけた。
 他方幕府側は、キリシタン弾圧は国内法に違反した者たちを処罰するもので、これへの抗議は内政干渉だと突っぱねた。
 取り調べにあたった奉行所の役人が「日本にその方どもを助くる宗旨あり、将軍さまに従ってそれを守れ」と迫ったのに対して、高木仙右衛門は答えた。
 「(天地が)いまだなき時より、天主(神)がありて、天地万物をつくり、人間のはじめをつくりました。天主はわれらのまことの親でござる。この御親のほかには何も信じ敬うことはできません。天主の十ヵ条[十戒]の御掟にもさわらぬことは、将軍さま方によく従がえとありますれば、私の親より言い伝えらるるには《天主よりほかのものを拝むな》、また年貢をよく納め公役もよく務めよ、とのことなれば、キリシタンはおかみに一揆をしたこともありません」(「仙右衛門覚え書」、一八八〇・明治一二年頃、口述筆記。ちなみに仙右衛門の祖先は長崎代官の一族。迫害を逃れて苗宇と武士を捨てて農民となって大浦に移ったキリシタン。末裔の仙右衛門は読み書きできない文盲であった。そのため彼の抵抗の記録は「口述筆記」の形をとった、後述)。
 奉行所の厳しい取り調べに六七人のうち、まず二ヵ月後に二一名が棄教した。キリシタンは拷問も加えられ改心・棄教を迫られたからだ。三ヵ月目に入ると、拷問や空腹に耐えきれず棄教者が増え、とうとう棄教しないのは仙右衛門だけとなった。他方キリシタンへの拷問はフランス公使の知るところとなり、公使は将軍に抗議し、長崎奉行は罷免された。一人棄教しない仙右衛門にはさらに改心(棄教)せよとの説得が続けられた。これに対して仙右衛門は答えた、
 「天地万物いまだなき時、神さまが万物をおつくりになったのですから、天子(天皇)さま、将軍さまより、神さまが上だと私は思います。それで神・デウスを捨てて仏道神道に変われということさえなけば、何でも将軍さまの仰せに従います。神さまの御掟にかなうことなら天子(天皇)さま将軍さまの仰せに従います」。
 かくて仙右衛門は八〇日後に釈放され、帰宅した。先に棄教して釈放された人々は帰宅した時、棄教してもどったと知つて家族は彼らに厳しい対応をした。「信仰を捨てた者は家に入れない」と彼らは締め出され、山に隠れていた。仙右衛門が棄教せず帰ってきたと知って、人々は喜こんだ。彼は「天主様のおかげ、主教さまとおまえたちのオラショ(祈り)のおかげで信仰を守りとおして帰った。改心・棄教して帰った人々を見捨てないように」と語った。自分の信仰の強さを誇示することなく、神の助けと信者仲間の祈りで迫害に耐えることができたと語る仙右衛門の言葉は含蓄がある。
 仙右衛門の行動に励まされて、棄教(改心)した人々三八名は「棄教の撤回・改心もどし」を庄屋に願いでた。しかも召喚された彼らに対する奉行所の処置は監視つきで帰宅を許す、という寛大なものだった。
 仙右衛門は釈放から一ヵ月後、新奉行の河津伊豆守に召喚さて話し合い(対決)をした。伊豆守は幕府の使節としてフランスに渡り外交交渉のため三年滞在した経験があって、拷問でなく、話し合いで改宗・棄教を求めた。
 「許しのある宗旨仏教か神道かを守るべし」との奉行の説得に対して、仙右衛門は「ただ天主ばかりに信心いたしまする。たとえ殺されましても神仏は拝みません」とはねつけた。奉行はさらに説いた「キリシタン宗旨はよき宗旨であるけれども、いまだ将軍さまより許しがない…だんだんキリシタンも許しになるによって、それまでの間《ただ心の中に信ずべし》」。仙右衛門は答えた「《心のうちばかりで信ずることかないません》」。奉行は仙右衛門の一家だけに神仏を拝まない許可を与える、といった。仙右衛門はこれも拒んだ。「私は親、兄弟もあり、近所の人もおりますれば、みな(が)許し受けずして私一人さように信ずることかないません。このキリストの教えはよき教えなれば、御吟味(棄教の説得)のあればあるほど、守りたくなるによって、この宗旨御許しください」。
 「内面だけで信ずる(「ただ心の中に信ずべし」)」このポイントは近代日本において「信教の自由」について考える場合、実に重大なテーマとなる。後に、一八八九・明治二精帝国憲法が換発され、第二八条で「信教の自由」は認められた。欧米における「信教の自由」は、心でを信じることも信じないことも自由である、キリシタンを信じることも自由である、との内面におけ信教の自由は、外部における信教の自由、礼拝(結社・集会の自由)、布教活動(宗教活動・演説、言論の自由)、伝道文書・宗教文献の出版の自由などと表裏一体で結合していた。ところが帝国憲法の場合、同年に出た伊藤博文の「憲法義解」(一八八九)によれば、いわゆる内面における信教の自由は無条件に認められた「本心の自由は人の内部に存するものにして、もとより国法の干渉する区域の外に在り」(「義解」)。しかし他方外部の宗教活動の自由には厳しい制限がつけられた「信仰帰依は専ら内部の心識に属すといえども、そのさらに外部に向いて礼拝・儀式・布教・演説および結社・集会をなすに至りてはもとより法律または警察上安寧秩序を維持するための一般の制限にしたがわざるべからず。…内部における信教の自由は完全にして一の制限を受けず。しかして外部における礼拝・布教の自由は法律規則に対し必要なる制限を受けざるべからず」(「義解」)。「心の内だけで信ぜよ」との発言はいつも権力者から出された。
 後に一九二九・昭和四年、宗教法案の提案説明の中で勝田文相はこう述べた「憲法上の信教の自由は《内心上》の自由であって、結社その他の自由は別個の問題である」。(後述)。
 このように仙右衛門と奉行の間でのやりとりは、信教の自由の本質に関わる大問題であったが、仙右衛門は「内面のみの」信教の自由を決然と拒否したのだ「心の内ばかりで信じることかないません」と。