建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第二章 安中歴史探訪 湯浅治郎の活動ー1

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

第二章 安中歴史探訪 湯浅治郎の活動

 一九九九年八月初め、家内と群馬の安中市に行った。柏木義円(一八六〇~一九三八、一八九七年以後安中教会牧師、井上哲次郎との勅語をめぐる論争、日露戦争への非戦論の展開、渡瀬常吉の朝鮮植民地伝道への批判、政府による神社参拝強制への批判論、満州事変における軍部批判はよく知られている。義円は「上毛教界月報」を三八年間発行して評論活動を続けた。著作は「柏木義円著作集」全二巻、「柏木義円日記」「上毛教界月報、復刻版」、がある)の活動した地、またここは湯浅治郎、新島襄の故郷である。高崎までは電車の便はよいのだが、そこから三つ目の安中までは電車は一時間に一本、また駅は町の東端にあるので、町の中心にある安中教会までは、タクシーか一時間に一本あるかないかのバスになる。朝六時半の電車で出発して、現地、柏木義円の墓に着いたのが、四時間後であった。

柏木義円の墓
 墓は教会から少し離れた西広寺の墓地にある。この墓は安中市の史蹟に指定され、解説の看板もあった。写真をとったが、光が強いせいかよく写らなかった。とにかく路上温度は四〇度を超えている。

安中教会
 教会はそこから数分。一九二〇(大正九)年に建てられた現会堂。この会堂は「新島襄記念館」として教会役員の湯浅治郎が発案し全国的に寄付が集められ、湯浅が材料選びから現場監督まで陣頭指揮で建てたという。外壁は大谷石造りの洋風建築。
 「東京から柏木義円研究のために来たので中を見せていただきたい」と頼むと、幼稚園の園長井口實先生が、案内とコメントをしてくださった。内部は正面に講壇、木造三階建て。一、二階の会衆席は八〇名は入る感じ。三階は鐘をつるした塔になっている。内部は八〇年たっているとは思われないほど美しくどっしりしている。県当局は文化財指定になれば修復は県の費用でやると申し入れが幾度もあったが、指定されると自由な活動がしにくくなると断っているとのこと。
 講壇に向って前方の左右に大きな絵が四枚かけてある。右上に新島襄像(一〇〇×七〇センチぐらい、以下の絵も同)、湯浅治郎、左上にデービス(新島襄を助けた宣教師)と柏木義円の像。写真でなく絵であるのが特徴。描いたのは湯浅一郎、すなわち治郎の長男その他で、本格的な肖像画である。新島襄はむろん同志社創立者かつ安中教会の創立者、湯浅治郎は新島襄によって洗礼をうけた一期生的教会員、有田屋という藩出入りの味噌屋の跡取りで、自由民権運動、県会議員・議長(特に廃娼運動で活躍)、第一、二回の帝国議会選挙に当選、またその後議員をやめて、新島の依頼で同志社の財政建直しの活動、組合教会全体の財政担当者として尽くした(この時期に組合教会の朝鮮伝道部が朝鮮総督府の機密費の寄付をうけたのでそれへの批判と寄付の返金をしたことは知られている)。警醒社という出版社も起こし、義弟の徳富蘇峰の雑誌・著作の出版と販売も手掛けた。湯浅が再婚した初子は、徳富蘇峰・蘆花兄弟の姉。教会の敷地には三メートルもある蘇峰の筆になる石碑が建っている。湯浅は晩年、赤坂辺りに家をかまえ、月に一回は安中教会の礼拝に出たという。
 井口實先生は「教会一〇〇年史」の編集者、数年前幼稚園の「七〇年史」執筆編集した方で、六〇才過ぎ、コメントをする人として最適の方であった。
 道を渡った向こう側に牧師館(もとの宣教師館)があり、その隣りに平屋の瓦ぶきの古い家があり、これは移築されたもので、家の中に二間をつなげると二〇畳ほどの和室があり、そこで以前は礼拝集会をしたという。その部屋の後に六畳ほどの部屋があり、柏木義円の書斎であったところ。その家の南側は数十坪の庭で、すみに大きく古い桜の木がガラス戸こしに見えた。その庭の先は崖で、その下にはかって警察署があったところ(現在は駐車場)。昭和の、戦時下「上毛教界月報」が発禁処分を受けると、義円牧師(当時六〇代)はすぐ下の警察署に警察官らに連行され、坂を下りていって拘留される、すると教会役員の県会議員・田中京四郎氏に連絡がいって、その議員が警察に出張っていって義円牧師を釈放させる。県会議員は警察署長よりもはるかに格が上で、署長もすぐに釈放した、その頃の町長は湯浅治郎の息子だった、義円牧師は拘留、罰金、月報の没収などの弾圧を幾度も受けたが、教会自体が弾圧を受けた記憶はない、教会員は義円牧師の評論活動を理解し支えていたと語ってくださった。
 安中市の東には海抜一五〇〇メートルの榛名山があり、その近くの伊香保温泉は良く知られている。治郎の義弟、蘆花は姉初子の訪問もかねて安中に来ては湯浅家の人々と馬車で伊香保に出かけたという。蘆花の妻・愛子は初子の強い感化で義円牧師から洗礼を受けた。現在伊香保の街はずれには蘆花記念館が建てられている。