建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

第三章 勝田文相の発言 柏木義円による批判

2002パンフレット 「心の内ばかりで信ずることかないません」

第三章 勝田文相の発言 柏木義円による批判

 日本のキリスト者においては、憲法のいう「信教の自由」をただ内面におけるものと把握し、この自由が外面における信教の自由の行使の自由、すなわち布教、集会・礼拝、言論、出版、結社などと表裏一体となっている側面の把握が明治期のキリスト者においても現代においても、 ひときわ弱いと感じられる。その理由の一つは、帝国憲法における信教の自由に対する先達らの把握方法にもあると考えられる。
 一九二九・昭和四年二月、第二次宗教法案「宗教団体法案」が田中義一内閣によって帝国議会に提出された。廃案になった第一次宗教法案の二年後のことである。この時期には、田中内閣による中国山東省への出兵事件、関東軍による中国の指導者、張作霖の鉄道爆破・殺害事件、日本共産党への大弾圧事件も起きた。満州事変勃発(三一・昭和六年)前夜のころである。
 キリスト教界における法案反対運動は、二年前の法案反対運動と同様、いまだ活発であった。ここでは、一九二九・昭和四年二月、帝国議会貴族員院での宗教団体法案特別委員会における質疑応答を手がかりにして当時の勝田主計文相の発言の間題を取り上げたい(当時、神社は宗教ではないとの政府見解・国家神道のもとで、神社を管轄したのは内務省、他方宗教各宗派、仏教、教派神道キリスト教を管轄したのは文部省であった)。
 第一に、白川資長議員の質問「もし教会などにおきまして、神社の参拝を禁止する、すなわち伊勢神宮とか明治神宮に参拝する必要はない、わが教会の神さえ拝んでいればというような教義、もしくはかくのごときことを講義するところの教会ありましたらば、これはどいうふうに御取締になるかということをうかがいたい」。これに対して勝田文相は答弁した、
 「…神道といいまた神社といい、要するにわが国家固有の成立の情況から発達をいたしまして来たものでありますから、ただ今御話のごとくに神道のあるいは宗派にして、あるいは伊勢大神宮を礼拝してはいかぬとか、かような講義あるいは布教をいたすとかいうような事柄というものはない、とさように考えております。もしかりにお尋ねのごときものがありといたしますれば、それはよく教訓もいたしますし、相当な取締をすることに行政上いたしたいと思います」(質疑議事録、戸村政博「神社問題とキリスト教」一九七六)。
 第二に、阪谷芳郎議員の質問「当法案が宗教を法律によって羈束(拘束・統制)するような懸念があるのではないか」に対して、勝田文相は答弁した、
 勝田文相は、帝国憲法において宗教、信教の自由の内容を明確にするには、伊藤博文の「憲法義解」(一八八九・明治二二年・岩波文庫)の解釈に依拠するのが最適であると述べている、すなわち信教の自由は「内部の信仰(のみ)を意味している。また外部に出た団体とか結社とかいうようなことは、これはいわゆる《信教の自由の範囲外である、こういうふうに解釈をされている》のであります。…外国の憲法などを見てもこの信教の自由ということとそれからあるいは団体結社の自由という事柄、これは《全く別段に規定してある》ようなものが多いのであります[この見解は歪曲である、後述]」。勝田文相は答弁を続ける、
 「それゆえにこの団体なり結社の自由ということを、憲法に信教の自由の所に書かれずと、ただ信教だけを憲法に草案されたというとことは、やはり内部関係にあるのではなかろうか、しかして集会結社というものに対しては、憲法の二十九条において法律の範囲内においてこれをなすことができるという、この規定にすべて打ち込まれたと、かく解釈するのが適当ではないかという風に私どもは考えおります。それゆえにいわゆるその意味における信教の自由、宗教そのものというものを法律が羈束するということはこれはないのでありまする。《外に現われた団体、この団体の活動なり行動なり、これを法律でもって覇束するという事柄は、こはわが憲法の許す所であって、また実際においてその必要がある》ことではなかろうか、かように考えているのであります」(戸村政弘、前掲書)。
 柏木義円はこの勝田文相の答弁に対して(その新聞記事をみて)批判を加えた。
 「勝田氏は無知か故意か憲法第二十八条(信教の自由)を曲解せし事。氏曰く『憲法上の信教の自由は《内心上の自由》であって、結社その他の自由は別の問題である云々』。愚かなるかな氏や。人が《内心で》物を盗もうと思おうが人を殺そうと考えようが、神のほか誰がこれに立ち入ることができるか。法律において人の内心に立ち入りて自由を許すの許さないのと申すは、たわけの骨頂にて候。……日本憲法学の権威たる東大教授美濃部達吉博士も、信教の自由は、第一に、信仰または不信仰《表白しまたは表白せざる》自由を包含する。第二、信教の自由は、宗教的教育の自由を包含する。第三、信教の自由は信仰または不信仰によりて法律上に如何なる特権をも与えられず、また如何なる不利益をも受けることなき自由を包含すると説き、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由についても、《一般国民共通の制限以外に特に宗教に関するゆえに特別の制限》を受けしむるはこれ《信教の自由の侵害》だと申されおり候。されば、今回の法案は、一般国民としての以外に、特に宗教をして宗教としての羈束を受けしめんとするものにて、吾人が憲法によりて与えられたる尊重なる自由を侵害するものたるや明白にて候。…」(「上毛教界月報」一九二九・昭和四年三月、「柏木義円著作集」第二巻)。
 ここで取り上げたいテーマは、勝田文相の議会における答弁とそれに対する柏木義円の批判、当時の宗教法案をめぐる論戦に限定されるものでは決してない。問題としたいのは、帝国憲法における「信教の白由」(第二八条)の内実の解釈についてである。
 伊藤博文の「憲法義解」は、周知のように、信教の自由をもっぱら内心における信じる自由に限定した点に特徴がある。言い換えると、信教の自由における外部の自由、宗教活動、布教・集会・結社の自由、言論・演説の自由などに対しては「国家の安寧秩序を妨げず、臣民たるの義務に背かざる限り」という制限条項のもとにおいたのだ。二つのポイントにふれたい。
 第一に、伊藤博文が参考とした欧米の憲法における信教の自由について、二例だけみたい。
 「プロシャ憲法」(一八五〇制定)「宗教的信仰の自由、宗教団体の自由ならびに、一般家宅内および公共の場所における宗教挙行の自由は、これを保障す」(戸村政弘、前掲書)。スエーデン憲法(一八〇九)「国王は各人の宗教の自由行使を保護す」。この二例は、信教の自由とは宗教儀式や布教の自由が信教の自由の内実を構成していることを明示していて、注目すべきである。
 第二に、当時の日本の憲法学者たちは信教の自由についてしるしている。上杉慎吉(「帝国憲法術義」)はこう述べている「信教の自由と云うのは、内部の信仰の自由を云うのはない。これを外部に表白して礼拝、集会、結社をなすの自由を云うのである」。
 美濃部達吉(「憲法堤要」)の立場はすでに柏木義円も引用したが、美濃部博士はもっと勝田文相発言の内容にも踏み込んで述べている。
 「信教の自由は、単に心理における信仰の自由を意味するに非ず。心理の信仰は性質上各人の当然の自由に属し、国権をもって制限しうるべきに非ず。信教の自由は宗教の儀式礼拝をなし、寺院教会を設け教義の宣伝をなし集会結社をなすの自由を包含す。これよりこれをみれば、伊藤公まずこの『義解』において第二八条、信教の自由の内容として『外部における礼拝布教の自由』を指示する。その後の憲法専門学者らひとしくこれ[美濃部の立場]を認めて定説をつくり、千篇一律、万口一致の趣あり。ひとり異例を勝田文相の解釈に見るのみである」(引用は戸村、前掲書)。
 以上で勝田文相の答弁が、欧米の憲法における信教の自由の条文の規定、当時の日本の代表的な憲法学者の見解にいかに逆行したものであるかはめいはくである。伊藤博文の「義解」は信教の自由を強引に二つに区分しつつ「内なる信仰の自由」のみを無制限に保障するが、他方「外なる宗教活動の自由」に関しては法律や臣民たるの義務をもって制限・拘束した事実は権力者らの狡知を感じる。他方特に美濃部博士による伊藤博文の「義解」および勝田文相の答弁への批判の矛先は鋭い。
 すでに取り上げた幕末の高木山右衛門のあの言葉は、日本における信教の自由の歴史にとって決して忘れることのできない、かつ忘れてはならないものであることが、この勝田文相の発言の問題おいてもいよいよ明らかだ。「心のうちばかりでしんじることかないません」。
 この仙右衛門の見解が突破されて、キリスト者たちは、これ以後信教の自由をただ内心において信じる自由との「義解」および勝田答弁の立場を受け入れた。この道は政府の「神社は宗教ではない論」を受け入れ、さらにはキリスト者らが「神社参拝」強制に屈伏していく道であった。自分の内心においてキリストをひたすら「心の中だけで信じる」者が神社参拝をする行動、その姿は、第三者にも、他のキリスト者にも、もはやキリストを信じる者とは映らないのだ。
 キリスト者の神社参拝に関連して、自分の行動の意図と行動自体が一致してはじめて、その行動は一つの行動とみなされる。それには他者からその行動がどのように見えるか、判断されるかのポイントがある。自分は強制されたといえ、参拝はしたが神社の神々を拝んだのではない「神社参拝で自分は実はキリストを拝んでいたのだ」との意見を聞いたことがある。その人の意図と他者から見たその人の行動の「分裂・欺き」のポイントとして、律法学者エレアザルの殉教の例に言及したい。
 前一六〇年ころ、ユダヤはシリアのセレウコス王朝に占領支配されていた。シリア王アンテイオコス四世はユダヤの政治的、軍事的支配のみならず、宗教的支配をもくろんだ。王はユダヤ教の信仰を禁止し神殿を破壊させ、異教崇拝を強要した。異教崇拝に対して抵抗する人々は殺された。エレアザルは高齢の尊敬された律法学者であったが、王の命令として踏絵的に、祭壇に供えられた豚肉を食べることを強制された(ユダヤ教の律法は豚肉を食べることを厳しく禁じていた)。食べさせる係の人々はエレアザルの旧知の者で、他の清い肉を食べてよいから「人々の前で豚肉を食べた振りをすればよい」と好意的な提案をした。しかしエレアザルはこの申し出を拒否した。「そんな人を欺くことをすれば、大勢の若者がエレアザルは九〇才にもなって、異教の風習に転向したのかと思うだろう、私は若者たちに高貴な死に方の模範を残そう」と語って、殉教の死をとげた(旧約聖書外典・マカベア書下六章、ユダヤ人らはユダ・マカベウスの指導のもとに祖国独立闘争を行い、シリアの支配から独立した)。
 心の中だけで自分たちの神のみを信じる、という行動は、他者からは見えないし、他なる神を拝む祭儀において、決して他者からそれ自体としては、自分の神のみを心の中のみで信じることにはならない。これが戦時下神社参拝強制に屈服して参拝したのに、その後になってから神社参拝しつつ自分の神を拝んでいたと弁解した人々への批判である。