建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

教会論(証の側面から)

週報なしー1

勉強会での発題

日付不明

 

教会論

 (1)沢井留里さんから、教会論についての勉強会をしたいので、参加して、意見・発題のようなことをしてほしい、と依頼されて、テキストなどあれこれ考えてきた。
 しかし、考えてみると「教会論」は、信仰のテーマーーキリストについて、聖書について、罪の赦しについて、人間の創造について、などのうち一番難しい問題ではないかと思われる。なぜなら、
 (2)第一に、教会論は、教会活動の三つの中心一一証し(マルチュリア)、奉仕(デイアコニア)、交わり(コイノニア)、のすべてを包括するテーマであり、
 第二に、教会論は、私と神・キリストといった信仰の内面的、あるいは個人的な問題に限定されず、教会という信仰共同体全体の在り方と現にある姿、教会と社会、日曜日とウイークデイ、つまり信仰生活全体を含むテーマであるから。
 第三に、教会の歴史、旧約聖書におけるイスラエル新約聖書の諸教会、西欧における教会史(宗教改革など)、さらに日本独自の教会史を内包しているし、
 第四に、その教会史における教会の罪や過ち、特に、1930年以後の15年戦争における日本の「教会の戰争責任の問題」(ドイツの「ジュツットガルト罪責告白」)、特にドイツにおいて1934年に始まった「ドイツ教会闘争」(「バルメン宜言」など)、また、60年代後半の日本における靖国神社国営化・反対運動の中で現実となった「教会と国家、天皇制と教会」の問題、70年代のベトナム戦争反対の運動における信仰と社会実践の結合など、すぐれて社会的・政治的な運動との関連性、教会のもつ「運動体的側面と共同体的側面」との関わりあい、こういったテーマも教会論に含まれるからである。
 第五に、教文館などの店頭では最近、教会論の本を多数みかけるが、これは、現在の、世界の、日本の教会が全体的に、教会の問題で「混迷し、もがき、模索しつつ」、真のあるべき教会を求めて新しい歩みを始めたしるしではないか・・・例えば、ドイツの神学者クラッパートの著「和解と希望」(本年)、渡辺信夫氏の「教会が教会であるために」(昨年)、などの本。ー一あげていくときりがないほど、多岐・多様なテ一マ、問題、課題、疑問をすべて内に含む膨大なもの、これが教会論であるから。
 (3)教会論はこのように包括的なテーマであるから、あまり焦って短兵急に結論を出したりしてはいけないだろうし、あるいは、構えすぎてしまって、「聖書における教会」といった原理論から始めると息切れがしてしまう。だから、アプローチの方法、切り口が難しい。専門的すぎてはいけないし、入門的すぎてもいけない。
 さてどうするか、である。ここで、先に触れた教会の活動の三つの中心一一証し、奉仕交わり、のポイントに着目してそのうちの、マルチュリア・証しを取り上げることにしたい。今回だけでなく、継続してもよい。その場合、テーマに対してミクロに、つまり自分たちの身近な問題から近づくこともできるが、これは藪のなかに入ってしまうと思う。だから、教会論にマクロに、つまり大局的な立場から、現代の教会史の問題などから近づくのがよいと考える。

 

 (4)証し
 教会の成立・本質については、宗教改革、例えば「アウグスブルク信仰告白」(1530年、ルタ一派)はいう一一「教会は福音が正しく教えられ、礼典が正しく行なわれる所である」(第7条)。カール・バルト(スイスの神学者)の「われ信ず」(1935)の中でもこう語られている、「マタイ伝28:18以下によっても(「あなたがたは行ってすべての国民を弟子=キリスト者として、彼らに洗礼を施し、またあなやがたに命じておいたことすべてを彼らに教えなさい・・・」)、新約聖書によっても、《福音の説教と礼典の執行》をとおして、証人としての奉仕において教会は成立する」。そしてバルトはここでの「説教と礼典」が「キリストの委託」によること(マタイ28:18)を強調している。したがってこの二つがきちんと行なわれておれば、外面的には、そこは教会であると言える。
 しかし、「福音が正しく教えられること」(アウグスブルク信仰告自)は、教会史においては自明のことではなかった。例えば、(A)1933年ヒトラ一政権下のドイツでは福音よりも、「ドイツ民族であること」が上におかれ、ドイツ人(アーリア人)でないユ
ダヤ人を教会から追放しようとした。これを受け入れた人々と抵抗した人々が出てドイツ教会闘争が起こった。
 (B)日本の植民地支配下にあった朝鮮の長老派の諸教会は(1944年頃)、日本の長老派救会(彼らは神社参拝は国民儀礼であってキリスト教信仰に抵触しないと「解釈した」)とはちがって、最後まで日本の官憲の「神社参拝」強制を拒否して抵抗した。彼らは多数の投獄者、死者を出した(渡辺信夫「教会が教会であるために」)。ナチスの人種政策を受け入れようが、日本の官憲の神社参拝を受け入れようが、モーセの第一戒を踏みにじったままで、「依然として教会では説教がなされ、礼拝が行われた」という状況があったとしたら、それは「外面的には教会と見える」かもしれないが、真の教会・信仰の共同体といえるのか。このような問いかけが起こってきたのは、つい最近、ここ20年ぐらいのことである。ドイツでは1970年代、日本でも60年代後半の靖国闘争以後のことである。ここまで来るのに、40年もの歳月を必要としたのだ(波辺氏)。
 考えてみれば、「証し」は自分がキリスト者であることを「目に見える形で」証明することである。「マルチュリア・証し」には「殉教」の意味もある(NTには用語の用例はないが、行伝7章のステパノの殉教、12章の使徒ヤコブの殉教の記事がある)。
 「証人・マルチュロス」は「殉教者」の意味では、行伝22:20「あなたの証人=殉教者ステパノの血がながされた時」、黙示録2:13「私の忠実な証人・殉教者アンテパスがあなたがたの所で殺された時でさえ、あなた(ぺルガモの教会)は私への信仰を捨てなかった」などに出てくる。言い換えると、聖書や教会史においては、「証し」には、一つの可能性として「殉教」が含まれることが意味されている。証言・証しからこの側面を奪って、信仰とそれのもつ証言性を「小市民的な安心立命の事柄」にすり替え、体制におもねていったのが、私たちの日本の戰時下の教会のリーダーたちである。その論拠は「日本の教会を守るため」にであった。その体質を私たち自身も引き継いでいる。そこでは外面的な迎合は、内面的な信仰の枯渇となったのではないか。キルケゴールは「その真理(主体的真理・信仰、愛など)のために血が流される時に、その真理は真理であることが証明される」と語った。
 もう一つの「信仰者の状況」を取り上げたい。パスカルは信仰を持つには、習慣、理性、霊感の三つが必要であると語った。個人の信仰者を考えた場合、この霊感の(欠如の)問題、信仰生活の中で、喜び、確信がなかなか体験できない、といった状況、状態が存在するであろう。これは大きなテーマである。「現代に生きる使従信条」(1967)の中の教会の項目について次のように述べられいる一一
 「人々が説教し礼典を行ない、祈り賛美を歌うところ、にもかかわらず、人々が希望をもちえず、将来への不安が支配し、恐れが互いの交わりを引き裂くところでは、いかなる教会・信仰共同体ももはや存在せず、ただ宗教協同体が存在するだけである・・・教会においてただ宣教的な職能が見出されるとでころだけ、人は教会に出会うことができる。それは真の教会は〈可視的である〉ことを意味する。すなわち、人が希望を持つことができるところ、友情と犠性への心構えが存在するところ、交わりが生じるところでは、教会は〈可視的である〉」(「われは聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ずる」の項)。
 キリスト者が教会活動の中でなかなか喜びを見出せない状態を、ミクロの視点で把握しようとすると、自分の不熱心さのせいにしたり、牧師の説教のせいにしたりするだけで終わってしまうことになりかねない。マクロの、巨視的視点で把握する必要がある。例えば渡辺氏は「日本の教会がなぜ伸びないのか」について「天皇制の仕組みと何か関係があるらしい」という驚くべき解釈をしている。また、「将来的なキリストの来臨」(第一テサロノケ4章など)というテーマは、一般に、私たちにとっては、あまりびんとこないもののように思われるが、死のテーマ、キリスト者の死後の復活のテーマを考える時、重要な主題となるし(「ラッパが響いて、死人は朽ちない者に復活させられるであろう」第一コリント15:52、上智のデーケン氏の「死学」の講座はテレビの講座になった)、さらに、日本の植民地支配を受けていた当時の朝鮮のキリスト者にとって、キリストの来臨は日本の支配権力を打倒する新しい神の国到来の時と解釈されて、信仰的な抵抗のエネルギーの源泉となった(蔵田「天皇制と韓国キリスト教」)。つまり私たちは当面する現在の私の関心事・問題というミクロの、微視的ポイントで聖書を読みがちで、聖書の語っている内容をきちんと理解していないために、そこから喜びを汲み取れないということもあると思う。
 黙示録2:13の後半「あなたは、私の忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたのところで殺された時でさえ、私への信仰を捨てなかった」を学びたい。
 ここでの「あなた」は「ペルガモの教会」(12節)。「証人・マルチュロス」はここでは「殉教者」の意味。先に指摘したように、証言の一つの可能性が殉教である点は注日すべきである。「サタンが住んでいる」は、キリスト者の敵対勢力がいる、ということだが、ペルガモの町には「アスクレピオスの神」の神殿があったこととも関連するようだ(佐竹明「注解」)。ただし、サタンはアンテパスの殉教と関連づけると、敵対勢力ととったほうがよい。
 「アンテパス」が預言者的なキリストの証人との解釈もあるらしいが、一般の一人のキリスト者と見たほうがよい。「私への信仰」は「イエスへの信仰」。「捨てなかった」は拒否しなかったこと、ここでは具体的には「告白する」。アンテパスの殉教の原因は「皇帝礼拝」、つまり、皇帝礼拝の拒否であったらしい(佐竹)。皇帝礼拝を拒否して殉教するというこの例は、15年戦争の中で、信仰のゆえに神社参拝、天皇崇拝を拒否した人々に受け継がれたといえる。