建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

高木牧師告別式説教

2001-13

高木幹太牧師告別式説教

日付:2001年3月23日

 

 高木先生の好きな聖句の一つは、ヘブル13:14です。
「私たちはここには《永続的な》都をもってはいない。むしろ《将来的な》都こそ私たちが一心に得ようとしているものである」。

 「亡くなられた方を愛する」とはどうすればよいのか。これについてキルケゴールは、亡き人を愛するとは「その人のことを忘れないことだ、その人のことを思い出すことだ」と語っています(「愛の業」)。

 

 パウロは生ける者と亡くなった者との交流はキリストを通じてなされる、と言いました「キリストは、死んでいる者らと生きている者らとの主となられるために、死んで生き返えられた」 (ロマ14:9)。この箇所を神学者モルトマンはこう解釈しています。
 「キリストは死んだ者として死者の兄弟となられた。復活した者として、キリストは死んでいる者と生きている者とをとらえ神の国の完成への途上にある。死者は死んでいる、まだよみがえらされてはいない。しかし《彼らはすでにキリストの中にある》」(「神の到来」)。

 亡くなられた人との「再会」というテーマ。死後、み国において愛する人に会えるという希望を繰り返し私たちに語ったのは、昨年12月になくなった、私たちの親族、おばちやん、渡辺キヨさんでした。み国でママと会えるからね。おばちゃんの場合、キリスト者の復活への希望は、愛する者との再会のテーマと強く結びついていたようでした。
 日本において 「キリスト者の復活のテーマ」 を終始探求したのは、無教会の内村鑑三の弟子の藤井武でした。藤井武は、結婚10年にして奥さんの喬子夫人と死別しました。この奥さんとみ国において再会したいとの希望が、彼の「来世研究」の背後にあったようです。
 「キリスト者の復活」については、パウロはこう述べています「終わりのラッパの響きと共に、すべての者が(変えられる)であろう」(第一コリント15:51以下)。この「変えられる」は大きく二つに分けられる、一つは死んだ人たちの場合「死人は朽ちないものによみがえらされる」。もう一つは「私たち」すなわちパウロらその時点で「生きている者」の場合「私たちは《変えられる》であろう」。この終末時における死人の復活の出来事は 「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着なければならないからだ」と述べられています。
 愛する者と来世で「いつ会えるか」という問い、このような問いを発したこと自体が、藤井武の「来世研究」の偉大さの一つとしてあげられる。亡き妻といつ会えるのか、は彼にとって実に真剣な問いでした。幸せな中年、老年にある者にはけして発することのできない問いかけです。この問いかけは内村鑑三などからはでてきてはいない。この点では内村鑑三を藤井武は超えていました。この問いかけに対する回答は、第一に、死人が復活させられる時だ、となります。
 第二に、それでは、死人の復活は気の遠くなるような将来のことなのか。神学者カール・バルトは、マルコ14:32「(人の子の来臨の)その日その時間は、父のほか誰も知らない」などを根拠にして、 主の来臨の形で「終り」がくるか、自分の個的存在の死の形でくるか、私たちは誰も知らないのだと語りました。それほどバルトにとってはキリストの来臨と死人の復活はリアルなものでした。
 第三に、 これにつけ加えて、藤井武はこう言っています。
「けれども復活の時まで私たちは待たなければならないのか。否、死の後、私たちがキリストを見い出す時、また同時に私たちは愛する者をも見い出すのだ。彼らはそこで私たちを待っている。ああ再会の喜び、その実現の日は近い。必ずしも復活の朝まで待つには及ばない。私たちが委ねられた地上の戦いを終って、父のみもとに凱旋する時、彼ら・愛する者らは喜び勇んで私たちを迎えてくれるだろう」(「砂漠はサフランの如く」1925)。
 藤井武は、私たちが死後、キリストの中にある愛する者と再会できると考えています。
 亡くなられた高木先生はいまどこにおられるか。先生はすでにキリストの中に、キリストと共におられる。
 私たちは先生といつ再会できるのか。死後、死人の復活の時に。そして私たちが死んだのちに、ただちに。
 私たちがやがて迎える死が愛する者との再会への契機となるとしたら、死の姿が私たちの中で別のものへと変容をとげるにちがいない。
                                                              2001年3月23日