建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ハイデルベルク信仰問答 子なる神

週報なしー4

子なる神

テキスト:ロマ8:32

 

 ハイデルベルク信仰問答は、21から23問で「使徒信条」の内容を取り上げる、
24問「これらの信仰箇条はどのように分けられますか。(答)三つの部分に分けられます。第一の部分は、父なる神と私たちの創造について(これは、使徒信条の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」の部分)。第二は子なる神と私たちの救いについて(これは「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の部分)。第三は聖霊なる神と私たちの聖化についてです(これは「我は聖霊を信ず」の部分)。

 

 「使徒信条」とは、4世紀頃西方教会に広まり礼拝の聖礼典で用いられた。成立の場所はフランスとの説がある。ルターは「大教理問答書」で、カルヴァンも「ジュネーヴ信仰教理問答」でこれについて解説を書いており、プロテスタントの諸教派で重んじられてきた。使徒信条は、プロテスタント信仰の重要な規範である。
 26~28問は「父なる神について」。別の機会に。29~52問までの24の問答が「子なる神について」。ここは使徒信条の「われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」を説明している。29~30問はイエスという名の説明、31~32問はキリストという称号、33問は神の子の秘義、34問は主としての身分、の説明である。
 29問「なぜ神の子は、イエス、すなわち祝福を与える者と呼ばれるのですか。
答。それは、彼がわたしたちを私たちの罪から救って、祝福を与え、彼の他の何人のもとにおいても、唯一の祝福は求められず、見出だされないからです」
 ここでは、「イエスの名」について説明している。マタイ1:21「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」が引証箇所(他にルカ1:31)。イエスという名の語源は、ヘブル語のイエホシュアの短縮形・イエシュアが「ヤハウェは救い」を意味すること、に基づく(グニルカの注解)。29問はイエスの名を「祝福を与える者」と解釈しているが、この用語はルカ1:42「あなた(マリア)の胎の実も祝福を与えるかた」に由来している。ここでは私たちの救いはイエスからだけ期待できることを強調している。「この人による以外に救いはない」行伝4:12。
 30問「自分の祝福と救いを聖者や自分自身やまた他のところに求める人も、ただ一人の祝福を与える方イエスを、信じているのでしょうか。答。そうではありません。むしろそのような人は、たとえイエスを誇っていても、行為によって、ただ一人の祝福を与える方であるイエスを拒否しているのです。なぜなら、イエスは完全な救い主ではないか、あるいは、この救い主を真の信仰をもって受け入れる人は、彼において自分の祝福のために必要な一切を所有するか、そのいずれかであるからです」
「聖者」はカトリックにおける聖者崇拝のこと、宗教改革以来、プロテスタントは聖者崇拝を否定した。聖者の存在は、救いはイエスからだけ、を否定するからである。救いを「自分自身や他のところに求める」は「他の所に求める」はマモン(金銭)崇拝がある。また近代のプロテスタントにおける「個人崇拝、あるイデオロギー、ある神学の絶対化」をさしている(バルト)。日本では、他の宗教行事、初詣、お雛さまなども含まれる。これも、救いはイエスからだけ、を否定することになる。
 31問「なぜ、彼はキリスト、すなわち油注がれし者と呼ばれたもうのでしょうか。
答。そのわけは、彼が父なる神によって任命され、聖霊をもって油注がれて、その救いについての神の隠れた決意とみ心を私たちに啓示する、私たちの最高の預言者、教師、となり、その御体という唯一の犠牲によって私たちを救い、その執成しの祈りによって父のみ前に絶えず弁護してくださる、私たちの唯一の大祭司となり、私たちをそのみ言葉とみ霊によって支配し、私たちをすでに得た救いのもとに護り保ちたもう、永遠の王となりたもうたからです」
 キリストというのは「油注がれた者」を意味するへブル語「メシア、メシアッハ」をギリシャ語に訳した語で、本来は固有名詞ではなく、称号である。旧約で「油注がれた者」は祭司(レビ4:6)や王(イザヤ45:1)、預言者(61:1)であるが、新約ではヨハネ1:41「私たちは今メシア(訳せばキリスト)に出会いました」、4:25「私はキリストと呼ばれるメシアが来られるのを知つています」など。
 「聖霊をもって油注がれて」は、イエスの洗礼の時に、聖霊を受けたことを踏まえたもトの、マタイ3:16など。また「あなたから油注がれた聖なる僕イエス」行伝4:27、「神はナザレのイエス聖霊と力を注がれた」10:38。
 預言者、大祭司、王は「キリストの三重の職能」を示すもので、カルヴィン(「キリスト教綱要」)によって展開されたプロテスタントの教理である(バルト)。
 このうち「預言者性」については、申命18:15「あなたがたの神、主はあなたの内から、私(モーセ)のような預言者をあなたがたのために起こされるであろう」、イザヤ61:1 「主が私に油を注がれ」はルカ4:16以下で引用され、その「預言者」は「イエスに適用され」イエスを終末的な預言者とみている。マタイ21:11参照。イエスの預言者性は、 その宣教、 律法の新しい解釈、神の国の宣教にみることができる。
 しかしイエスはその活動をとおして神の国・支配の救いが現在において開始していることを確信し宣教した点で、(その将来性のみを告知した)他のすべての預言者や洗礼者ヨハネとは根本的に区別される(パネンベルク)。
 イエスの「大祭司性」はへブル7:28「み言葉は永遠に全うされたみ子を立てて、大祭司とした」、7:25「彼はいつも生きていて彼らのために執り成しておられる」などが強調している。31問は、「そのお体という唯一の犠牲によって私たちを救い、その執成の祈りによって」でイエスの大祭司性を表現している。特に「ご自身の体という犠牲によって私たちを救い」つまり「イエスの代理的苦難」の指摘は深い。王性については後。
 「子なる神」で重要なのは、キリストのみを問題にして「父なる神」とキリストとの関わりを取り上げない点である。この考え方は結果として「キリストが子なる神であることイエスのみ子性」を否定する。「この考え方」によっては、キリストの十字架も復活も解けないと思う。このポイントを聖書で見てみたい。
 (1)ゲッセマネ。イエスは渡される夜、エルサレムに近いオリブ山の西のふもとにあるゲッセマネで、祈りをされた「アバ、父よ、この杯・神の定められた苦しみ、死の定めを私から取りのけてください」マルコ14:36。イエスはここで神を「アバ、わが父」と呼んでおられる。この呼び掛けは儀式的なもの(アビヌ)ではなく、「肉親の父への日常的な親密な呼びかけである」(ボルンカム)。これは「み子」のみが、自分の肉親、身近な存在として呼びかけられる神への呼称である(「アバ」は最古の伝承としてアラム語のまま教会に受け入れられた、ロマ8:15、ガラ4:6)。
 (2)十字架。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか」マタイ27:46。ここは詩22:1からの引用であるが、イエスのこの祈り・叫びは義人の神への祈りと「同一」のものではない。「わが神」という呼び掛けにおける「わが」は表現上詩篇のものと同一であるが、ここでは独特の意味・響きがある。イエスが「わが神」と呼びかけられる時、ご自分の「父である神」が眼前にいましたもうように身近に感じられるからであり、他方見捨てられる「私」にしても、敬虔な信仰者(詩22篇)でなく「あなたの息子・子である私」という意味である。したがってこの箇所は「父なるあなたはどうして息子・子である私をお見捨てになるのですか」、父と子は同質であるこをふまえると「あなたはどうして第二の自己である私、あなたご自身である私、あなたご自身をお見捨てになるのですか」という意味となる。十字架上のイエスのこの呼び掛け・叫びは十字架の持つ不可思議・神秘を解明するものとなる。
 (3)ロマ8:32。この十字架の神秘とは「父なる神と子なる神」との出来事である点をロマ8:32はこう述べている「ご自身のみ子をさえ惜しまないで私たちすべての者のためにみ子を死に渡されたかた・父なる神」。十字架におけるイエスの死は、父なる神がみ子なる神を死に渡した、見捨てられた出来事であったのだ。私たちすべての者の救いのためにである。「主・キリストは私たちの罪過のために死に渡された」ロマ4:25。
 このようにイエスが「子なる神」であることをふまえてはじめて、十字架の出来事において働く父なる神のみ心、子なる神の果たした役割とみ子の存在が理解可能なものとなる。