建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

洗礼論2 罪の赦しの洗礼

週報なしー20

罪の赦しの洗礼

テキスト:ロマ6:3以下

(3)罪の赦しの洗礼
 洗礼において「霊から生まれる」と同等の重みを持つのが「罪の赦しの洗礼」である。洗礼と罪の赦しとの関連については、

 

 第一に、次の箇所があるーー行伝2:38「悔い改めて、罪の赦しのための(に至る)キリストの名による洗礼を受けなさい」、10:43「イエスを信じる者はすべて、イエスの名によって罪の赦しが受けられる」。ここには「洗礼、洗い」という用語は出てこないが、「〈イエスの名〉は、この箇所全体の眼目として、洗礼全体をさすものである」(ブルトマン)。22:16「み名をとなえて洗礼を受け、あなたの罪を〈洗い落とし〉なさい(アプルオマイ)」、テトス3:5「再生の〈洗い〉を受けて、聖霊をとおして新たにされて」、エペソ5:26「キリストは〈水で洗うこと〉により、み言葉によって教会を清めて・・」ーーこの二箇所の「洗い」は「ルートロン」で、「清め」の意味もあるがいずれも洗礼のこと。第一コリント6:11「あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、また私たちの神の霊によって、〈洗われ〉、清められ、義とされた」など。
 第二に、ロマ6:3以下
 ここでは、キリスト者の洗礼は、キリストの死と復活に取り入れられ「キリストの道」に巻き込まれたものであるという。
 「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスへと洗礼(バプテスマ)された私たちは、キリストの死へと洗礼(バプテスマ)されたことを。私たちはその死の洗礼をとおして彼と共に葬られたのだ。それは、キリストが死者たちの中から復活されたように、私たちもまた、新しい生命に歩むためである。・・・私たちはこのことを知つているーー私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力化されるためであることを。それによって私たちがもはや罪の力に仕えることががないためである。死んだ者は罪から解放されているからである。もし私たちがキリストと共に死んだのなら、私たちはキリストと共に生きるであろうと私たちは信じる。・・・キリストが死んだのは、ただ一度罪に死んだのであり、キリストが生きるのは神に生きるからである。このように、あなたがたもまた、自分の罪に死んでキリスト・イエスにあって神に生きている、と認めなさい・・・」
 洗礼は、ここでは単なる儀式ではなく、キリスト「にむかって・エイズ」、「へと、彼の死へと、彼の中に」の洗礼であって、具体的には、4節の「キリストの死へと洗礼された」で、キリストの死との「神秘的、礼典的」結合を言っている。洗礼においてキリスト者はキリストの死に巻き込まれ、引き入れられるーー「彼に接木されて」(5節)。洗礼においては、キリスト者はキリストの死を単に歴史的に回想するのではなく、それ以上の事柄、キリストと共に死に共に葬られた(4節、不定過去形の受身形)のだ。それゆえキリストと「共に死に共に葬られた」を単なる象徴、比喩と解釈してはならない。キリストの死と埋葬とはこの洗礼において、キリスト者自身に起こるのである。キリストの死との「歴史的な関わり」ではなく、「神秘的、礼典的・サクラメント的な結合」として、キリスト者の「死」が起こるのだ。
 そして、キリストの死は「ただ一度、罪に対しての死」であり(10節)、「死者は罪から解放されている」(7節)。ここの「解放される・ディカイオオーの完了形の受身」は「義とされる、罪から解放される」こと。罪の赦しはここでは、死をとおして起こる。キリスト者にとって「この死」は、「私たちの〈古き人〉はキリストと共に十字架に釘づけされた」と表現されている。ここの「古き人」は、生れながらの信仰以前の自然的人、「欲望に迷って滅び行く人」(エペソ4:22)「罪の体としての人間」(6節)。パウロは、キリスト者の古い人、その人自身はキリストと共に十字架につけられて、死んだ、という。6章では、キリストと「共に」という用語がたくさん出てくる。「キリストと共に葬られた」、「共に十字架につけられる」、「共に生きる」、さらに「彼の死と同じ姿(ホモイオーマ)とされ・不定過去の受身、復活と同じ姿にされる・未来形」、これらは先に言及したキリスト者のキリストとの結合をサクラメント的に表現したもの。キリスト者は、洗礼においてこのキリストと共に死に、共に葬られる。そのことをとおして、キリスト者の「罪の体(古い人)が無力化される」。「無力化・カタルゲオー」は完全に滅ぼす、ということではなくて、死んだようになる、無力とされること。これが「あなたがたも罪に対して死んだ者である」(11節)、「罪に対して死んだ私たち」(2節)。他方キリストと「共に死ぬこと」は、またキリストと「共に生きるであろう・未来形」(8節)、「彼の復活とも同じ姿となるであろう・未来形」と結びつく。ただ、キリストの復活は完了した事柄であるが、キリスト者の「復活」は未来形であって、未だ実現していない。ーー少し長くなったが、洗礼については、キリストの死の洗礼を受けることによってキリスト者は「罪の体・罪人自身が無力化される、もはや罪の力に仕えることをしない」という点がポイントである。したがって、洗礼なしには罪の赦しも起こらない。
 現実の問題として「洗礼を受けた者の罪」については、ここでは直接的には語っていない、それは、もっと大きなテーマが語られているからである。それは、5節の「彼・キリストに接木されて」の部分である。
 「洗礼によって与えられる罪の赦しは、志願者が十字架につけられたキリストに自分がゆだねられることによって、確実なものとなる。この赦しにおいては、祭儀的な汚れの除去、神の戒めに対する個々の違反、個々の過ちなどが中心問題なのではない。洗礼によって与えられる赦しは、ある種の〈支配者の交替〉を意味する(「神は私たちを闇の力から救いだして、み子の支配下に移してくださった」コロサイ1:13以下、「あなたがたは恵みの下にあるので、罪に支配されることはない」ロマ6:14)。人は洗礼によって、罪の支配を免れ(「罪の体が無力化されて」6節)、キリストの支配のもとに置かれるのである。洗礼によって神は、その人の過去も来来も含めて、その人の全体をみ手の内にとらえようとされる。過去は赦しによって無力となり(「心は清められて良心のとがめは去り」ヘブル10:22)、将来はゆるぐことのないキリストとの結合のうちに置かれる。
洗礼においては 罪の行為のゆるしばかりでなく、罪を犯さざるをえないという強制からの解放も生まれる」(シュリンク「洗礼論」)。
 パウロは、洗礼を受ける人にいう。6:11以下「あなたがた自身も罪に対して死んでキリスト・イエスにあって神に生きている」という「直接法」を根拠にして、「命令法」を語るーー「だから、あなたがたの死ぬべき体の中に罪を支配させて、あなたがたが罪の欲望に服従することのないように。またあなたがたの肢体を不義の武器として罪の意のま
まにさせないで、むしろ自分自身を死人の中から生かされた者として神にささげなさい」(4)教会の会員になることとしての洗礼
第一に、教会員になることとしての洗礼の箇所は、第一コリント12:13「私たちは一つのみ霊によって、一つの体となるように洗礼を受け」。ここの「一つの体」は、「キリストの体」(12:27、エペソ5:22「体なる教会」)なる教会のこと。
 特に、教会への加入は、ある個別の教会の会員になることだが、エクレシア・教会という語は、他に「地上の全教会」を意味する。「キリストの体」「主にある聖なる宮、霊にある神の住まい」(エペソ2:21以下)は、「普遍的教会」の呼び名である(シュリンク)から。したがって洗礼による教会への加入は、この「使徒的な公同の教会」に受け入れられることを意味する。つまり「世々の聖徒に連なること」を。
 第二に、行伝2:41「ペテロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受けた。そしてその日三千人ほどの人が仲間に加えられた(受身形)」。ここの「仲間に加えられる・プロステイテーミ」は他に2:47「主は共に救われた人々を日々仲間に加えられた」、5:14「信じて、主によって仲間に加えられた者はますます多くなった」、11:24「多くの民が主によって仲間に加えられた」。これらの三箇所では、教会の仲間に加わることが、「主が・・」、「主によって」とあるのは特に注目すべきで、洗礼を受けた者の加入は神によることを告げている。
 以上、洗礼について(1)霊から生まれる(2)罪の赦し(3)教会への加入の3ポイントを聖書から学んできた。このようなことがよくわかって洗礼を受ける人は恐らくおるまい。洗礼の時の気持は「なんとなくその気になって」というのがほどんとである(椎名麟三の例など)。 私の場合は「福音書のイエスに惹かれるものを感じ、この人についていってみよう」というぐらいの気持であった。それでいいのだと思う。復活のことがわかった(と思った)のは、洗礼を受けた1年後であった。ただ今から考えてみると、自分の洗礼は自分の人生に対する神の決定的な介入だったと思える(シュリンク)。
 次回はハイデルベルク信仰問答における洗礼を取り上げたい。