建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロゴスの受肉

週報なしー31

ロゴスの受肉

テキスト:ヨハネ1:14 

 一四節「そしてロゴスは肉体となった。そして私たちの間に住んでおられた。そして私たちはその栄光を見た。その栄光は、父の独り子らしいもので、恵みと真理(真実)に満ちていた」

 

 ここは、一節以下の頂点である。「ロゴスは肉体となったを伝統的には「受肉」という。これまでロゴスは「あった・存在した」という動詞で述べられていたが、一節「ロゴスがあった、神のもとにあった、神であった」、四節、九節「光であった」、一〇節「世におられた」。ところが一四節では「肉体となった・肉体に生成された」と表現される。しかもこの「なった」は、ロゴスが自分の力で肉体になった、を意味していない。この「なった・エゲネト」という動詞は、完了形の受け身の動詞であって、主語は神である。「ロゴスは(神によって)肉体に生成された」という意味である。九節のロゴスの、世への到来と居住も、ここでのロゴスの受肉と人間世界での居住も、すべて神のご計画のもとにある「神の派遣された方」(三:三四、五:三六、六:二九、一〇:三六など)について言っている。
 「肉体となった」を「単に《肉体という衣をまとって》出現した」という意味に解釈することはできない。第一ヨハネ四:二「イエス・キリストは肉体をとって到来された」においても「肉体を着て」ではなく「肉体において、肉体で、肉体的存在として」到来された、と言っている。ここの「なった・ならされた」はロゴスの存在様式の「変化」を示している。先にはロゴスは父のもとで栄光のうちにいましたが、今や地上的な人間存在の低さ、卑しさ 肉体の完全な現実を持った、人間の姿となったのだ(シュナッケンブルク)。このようなロゴスの受肉は、人間の救 済史における大きな転回点を示している。
始原における神的ロゴスの存在という思想は、イスラエルの救済史、出エジプトモーセ十戒、バビロン捕囚からの解放、メシア預言などと有機的に結合しなければ、単なる神話的表象に化してしまう(パネンベルク)。ロゴスが地上のイエスとしっかりとした結びつきを持たなければ、抽象的な哲学論議になってしまう。他方、地上のキリストの存在と活動が示す神性は、単に偶発的な出来事・事續の積み重ねだけでは、パレスチナキリスト者を納得させても、旧約聖書をよく知らない、信仰・信仰の対象の理論的な解明を要求するギリシャ、ローマ人を獲得できなかった(同)。
 このような時代背景をふまえると、ヨハネ伝のこの冒頭の部分は実に深い内容であったことがしだいに明らかになってくる。
 神的ロゴスの存在は、一七節に出てくるキリストとの結合がしっかりとなされ、神の「恵みと真理・真実はキリストをもって現われた」とある。イスラエルの救済史との結合は、モーセ十戒への言及(一八節)、預言者の伝統の上にある洗礼者ヨハネの存在、イエスの証人としての彼の役割によって獲得されている(六節以下、一五節以下)。さらに二九節「世の罪を取りのぞく神の小羊」もイスラエルの歴史との結合を示している。
 「受肉」についてであるが、当時のヘレニズム世界グノーシス主義にも「肉体をとって出現する神々」という思想があった(シュナッケンブルク)。しかし、ここにある人間となった神の御子という考えは、グノーシス主義の変種ではない グノーシスは人間イエスの現実性を否定し神の子の人間としての姿を「仮象の肉体」とみる。それに対するプロテストとして、ここでは「肉体にならされた」と言われ、それは肉体の現実において現われた救済者の登場を意味する。より厳密には、ロゴスは「《人間的な本性の担い手》として現われたのではなく、《特定の史的人間》ナザレのイエスとして現われた」といえる(ブルトマン)。これ自体が奇跡であり人間には逆説、つまづき、である。逆説とは、人間的外観とは対立するなにかを示すことで、人間の認識能力を超えた事態のこと。イエスが単なる人間の外観をもっているのにイエスが神と同質であること、神の子であること。したがってヨハネ伝では処女降誕も聖霊による受胎も不要なのだ。他方「人間となった」ではなく「肉体となった」と述べられている理由もある。ここでの「肉体・サルクス」は単なる「人間」の言い換えではなくむしろ、ここでの「肉」は「弱々しいもの、滅びゆくもの・死滅性」を意味する(六:六三)。行伝二:二七後半「あなたはあなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない」においては、神の聖者イエスの体が「くちはてる」ことが前提とされている。肉体・サルクスは、パウロでは肉体と血との結びつき、体:ソーマよりもはるかに「罪に近いところ」にある。「肉と血は神の国を受け継ぐことはできない」第一コリ一五:五〇。「罪の肉の姿で」ロマ八:三。
 コロ一:二二「御子も《肉の体、人間的制約をもつ体》により、その死をとおして、あなたがたを神と和解させた」は、キリストの人性が「人間的な被服、不死性を持った特別のもの」でないことを言っている(キリストが罪を知らない方については、第二コリント五:二一)。
 先のロマ八:三「神はご自身の御子を《罪の肉と同じ姿で》遣わし」においても、受肉のリアリティーが強調されている。「罪の肉(体)のホイオーマで」。ホモイオーマは、ピリピ二:七で「人間と同じ姿」にもある、「外も内もすべてそっくりのかたち、同じような姿」、つまり同一と相違との両方をもったもの、の意味。はかなく、死ぬべき、アダムにつながる罪に限定された被造物性、これが「罪の肉と同じ姿で」ある。「御子の肉は自然的形而上学的罪を犯しえないような、特別の神的な肉ではない」松木。「肉になりたもうた」が、「聖なる肉、神的肉のようなもの」、例えば五世紀のカルケドン信条にあるキリスト両性論「真の神にして真の人(Vere Deus Vere Homo)」を意味するとすれば、限りなく仮現説にちかづくことになる。
 キリストの「肉体・サルクス」は肉と血をもった存在であるから、この肉体は、人間の「肉体性の聖化」よりも、「肉において罪を罰する」(ロマ八:三)つまり十字架において「裂かれ流されるキリストの肉と血」をふまえそれらを指し示している(シュナッケンブルク)。
 一四節中段「そしてロゴスは私たちの間に住んでおられた」。ここの「住む」は「天幕を張って住む・一時的に留まる」と「住む」の両方の意味がある。これはロゴスが地上的に「出現した」ことでなく、現実の人間として私たちの間に滞在したといっている。協会訳の「宿った」もこの一時的滞在を言ったもので、霊的な宿りのことではない。
 一四節後半「私たちはその栄光を見た。その栄光は父の独り子にふさわしいもので」。ここで始めて「私たち」が出てくる。中段の「私たちの中に」は「人間の中に」の意味だが、この「私たち」はヨハネの教会を指している。むろん意味はもっと広く、一三節の「彼・ロゴスを受け入れた人々、その名を信じた人々」を意味する。これは「闇」五節、「世」九~一〇節、と対立するものである。 「闇はロゴスを理解しなかった」五節、「世はロゴスを受け入れなかった」一一節からである。
 「肉となった」ロゴスの「栄光を見る」というのは、身近に体験するということだが 問題は「彼の栄光」の内容は、ロゴスが肉となって、信仰者の中に住んだこと、を指すがより具体的には、ロゴスの受肉を、御子の栄光として見るを意味している。
 この点をもう少し展開したい。このポイントは、後段の「父の独り子としての栄光」と関連する。これは、受肉、独り子(一:一八、三:一六、一八)つまりイエスの御子性はどのように示され、啓示されるかというポイントである。
 第一に、人間イエスの中に神の独子をみる、イエスの御子性 神との同質性をみる、イエスの中に神に遣わされた人をみる、イエスの中に神的ロゴスをみる、神的ロゴスは今や、肉、普通の歴史的人間となったことをみる、受肉を神の啓示、御心の提示、開示とみる。イエスの中に神性と人性をみるーーこれは、受肉の思想ではなく、むしろ福音書の思想である。ナザレのイエスという存在が、奇跡を行い、罪を赦し、権威ある言葉を語る。一人の人間の中に神をみるのである。
 受肉という思想はこれを逆転したもである。すなわち、
 第二に、受肉こそイエスの御子性を示す。なぜなら、神的ロゴスは「神によって肉、肉体となったからである」。イエスはこの人間性、地上的存在様式を「神から受け取った」。イエスが人間であること、このことがイエスの神性、御子性を示す。これが受肉の神秘である。イエスが人間であることは、イエス人間性を示すのでなく、イエスの神性、御子性をしめすのである。人間の<中に>神の御子を見るのでなく、ひとりの人間が<御子>なのである。だから、受肉は神の啓示なのである。この点を「闇」や「世」は理解しなかった(5節)。
 第三に、イエスの御子性は、「父」、神への献身において示される。イエスの父への献身は、ピリピ二:八「キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であられた」にある。「死に至るまで」は時間的な意味でなく、従順の徹底を示す。グノーシス神話には、天から地上に到来して、また天に昇っていく救い主は存在するが、救い主の死、無残な死という思想はない(佐竹)。「十字架の死に至るまで」は、死が徹底した従順の行動であることを強調している(佐竹明、注解)。ヨハネ一〇:一七「私が自分の生命を捨てるから、父は私を愛してくださる」。
 ヨハネでは、この他イエスが「ご自分の生命を捨てる、放棄する、渡す」という箇所はいくつもある。一五:一三「友のために白分の生命を捨てる」、第一ヨハネ三:一六「主は私たちのために生命を捨ててくださった」、一〇:一一「よい羊飼いは羊のために自分の生命を捨てる」、一五、一八「自分から自分の生命を捨てる」。 これらはみな、イエスの生命の自己放棄、ご自分の生命を神に譲り渡されたこと、神への献身を表現している。
 そしてこれこそ一四節にある「独り子の栄光」である。独り子の栄光を見る、は、イエスを信じる者が、イエスが独り子として、ご自身の生命を捨てる、父、神に譲り渡す、神への献身を身近に味わうということである。