建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ラザロ(1)

週報なしー33

ラザロ(1)

テキスト:ヨハネ11:1~16 

1~5「ラザロという病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村べタニアの人であった。マリアは主に香油を塗り、み足を自分の髪でふいた女で、その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに使いをやって、言わせた『ご存知ですか、主よ、あなたの愛しておられる者が病気です』。イエスはそれを聞いて言われた『この病気は死には至らない。むしろ神の栄光が現われることに役立つものだ。つまり、それをとおして神の御子に栄光が与えられるためのものである』。イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」

 

 2節の内容、マリアがイエスに香油をぬった話は、次の12章で語られている。またマリアとマルタの姉妹については、ルカ10:38以下によく知られた「マリアとマルタの話」にも出ている。二人の名の順番は1節のみがマリアが先で、5、19節、ルカ10:38などではマルタが先になっているーーどちらが先になるかの理由は、イエスとの関わりの深さ、後にそこ(べタニア)に教会ができた時点での教会での二人の立場の重さとによるであろう。とにかくヨハネ11章ではマリアよりもマルタのほうがはるかに重い位置をしめている(次回)。
 ベタニアは、エルサレムから3キロの場所でオリブ山の東に位置する。18節参照。
「ラザロ」という名は、ヘブル語の名エレアザルのギリシャ語訳で、神に救けられた者、という意味。3節の、ラザロの病気についてイエスに知らせる姉妹の行為は、病気の癒しを平静に懇願したもの「あなたが愛しておられる者」の「愛する」はアガパオーでなく、フイレオ一。意味の違いはない。5節ではアガパオーが用いられている。ここでは友というニュアンス。イエスとマルタ、マリア、ラザロは以前より交流があったことをうかがわせる。11節に「私たちの友ラザロ」とあるように。ラザロの病気が何であったかはしるされていない。
 4節のイエス言葉は、病気という地上的人間的な事柄を神的意図の地平に移し変えるものである。その神的意図によれば、ラザロの病気は(いかに重いものであれ)、イエスの癒し奇跡の力を明示するための機会を与えるものであるばかりか、イエスの存在の開示の機会を与える「御子に栄光が与えられるために用いられるたもの」である。神の計画は、ラザロにとって、死と滅びの闇にではなく、御子の業において与えられる希望に向かっている。
 「この病気は死に至らない」という言葉も、ただ地上的死には至らない、というだけではなく、23節の「あなたの兄弟は復活するであろう」との意味が暗示されている。
 「神の栄光が現われるため」は、神が御子の業をとおして特別な仕方でご自身を示されようとされる、という意味だが、ここではこの神の栄光は「目に見えるもの」と考えられている(40節)。この栄光の開示は「しるし・癒し奇跡」として示される。2:11 
 「イエスは最初の<しるし>をガリラヤのカナで行い、ご自分の<栄光を現された>。弟子たちはイエスを信じた」。このラザロの話では癒し奇跡。
 神の栄光と御子の栄光との関連については、イエスはご自分の生命を捨てる・ささげること、服従をとおして神の栄光を現し、10:17「私が自分の生命を捨てるから、父は私を愛してくださる」、それによって父なる神はイエスを高くあげられたかた(17:28「私は父のもとに行く」)として栄光を与えられる、という形になっている。
 5節の「愛する・アガパオー」は、いわゆる「愛弟子」(13:23、19:26)以外には用いられていない。ラザロらの兄弟姉妹を愛していた、はそれ以前に彼らと関わりがあったことを暗示している。「愛する」は自然的な愛着を含みつつ、精神的な親密さを表現していよう。
 6~16「しかしラザロが病気であると聞いて、さらに二日間、イエスは滞在しておられた場所に留まった。その後、弟子たちに言われた『ユダヤに行こう』。弟子たちは言った『先生、ユダヤ人たちがたった今、あなたを石打ちにしようとしていました。それでもそこにまたおいてになりたいのですか』。
 イエスは答えられた『一日は十二時間ないだろうか。人が昼間に歩き回れば、躓くことはない。その人は世の光を見ているからである。しかし人が夜に歩き回れば、躓く。その人の中に光がないからである』。こう語られた後、また彼らに話された『私たちの友、ラザロは眠っている。私は彼を起しに行く』。そこで弟子たちが言った『主よ、彼が眠っているのでしたら、健康です』。
 イエスはラザロが死んだと語られたのだが、弟子たちはイエスが眠りの休息について語られたと考えたのだ。そこでイエスは彼らに明言された『ラザロは死んだ。そして私がその場にいなかったこと
を、あなたがたのゆえに私は喜んでいる。それによってあなたがたが信じるためである。ラザロのもとに行こう』。その時、デドモ(双子)と呼ばれているトマスが仲間の弟子たちに言った『私たちも行って、主と共に死のう』」
 6節の「イエスが滞在された場所」というのは、10:40「ヨルダン川の向こうの、最初ヨハネが洗礼を授けていた場所」のことで、ベタニアまで1日の距離の地。
 なぜイエスがラザロの病気のことを聞いても、すぐには行動を起こさず、二日もじっとその場所に留まっておられたか、については、常識的には理解しがたい。このポイントは意外な理由にあるようだ。2:4「私の時はまだ来ていません」(7:30、8:20)すなわち「イエスの苦難の時の到来」と関連する。11:7、8にあるように、イエスの「ユダヤ行き」(7節)はユダヤ人による石で打ち殺される(8節)、イエスを待つ「死の運命」と結びついている、ここから「二日間の延期」は解釈すべきであろう。
 8節にある弟子たちの言葉「ユダヤ人たちがあなたを石で打ち殺そうした」理由は、イエスの発言「私は父と一つである」(10:30)がユダヤ人には神への冒瀆と思えたためである(10:33)。ーー9~10節は省略。
 11節「私たちの友、ラザロは眠っている。私は彼を起しに行く」は、13節にあるとおり、イエスはラザロの死を告げられたもの。どのようにイエスがそれを知られたかは、イエスの「超能力」に属す。1:47以下のナタナエルについて、4:16以下のサマリアの女についてと同様である。他方、弟子たちは8節でもここでもイエスの言葉の内容を全く理解していない、それでとんちんかんな答をした。12節。この誤解は、神の摂理・はからいというものは、人間には理解できないことを示している。この事柄はこの物語全体を貫いているーー15節 「あなたがたの信仰を強めるため」。
 11節「ラザロを起す・目覚めさせる」は深い意味(復活)が込められているのだが、弟子たちはラザロが「健康だ、助かる・ソーゼタイ」と誤解した。この用語は「身体的な癒し」の他に「真の救い」を意味している(マルコ5:23など)。
 15節でイエスは「ラザロは死んだのだ。私がそこにいなかったこと」つまりその場にいてラザロの病気を癒すことがなかったことを「喜ぶ」と言われた。後半の「あなたがたの信仰を強めることができるからである」は、重要である。ここでの「弟子たちの信仰jとは、癒しをされたり、さらに死人を生き返らせるような「イエスの力に対する信仰」というよりも、メシアにして神の御子なるイエスへの信仰のことである。そして「彼らの」信仰は、イエスの受難をとおして動揺させられることになる。16:32「みな、ちりじりになり自分の家に帰っていく」。しかもこのラザロの物語全体での眼目、死人のよみがえりという主題をとおして、この弟子たちの信仰は強化される、すなわち、信仰や信仰の強化は、死人のよみがえりを信じることと関わるものだ、ということである。
 この時点で、弟子たちの側にもそれなりの「決意」があった。その点が弟子のトマスの言葉に出ている、16節「するとトマスすなわちデドモ(双子)が仲間の弟子たちに言った『(このままユダヤ
に行くと主の生命があぶない)私たちも行って、主と共に死のうではないか』」。ーー他の福音書ではあまり注目されていないトマスはヨハネ伝では幾度も出てくる。14:5以下、20:24では、実体験しなければ、「復活のイエスを信じない」と言ったのもこのトマスである。彼は弟子集団の中で合理主義的考えを代表しているが、ここでの彼の発言は殉教を覚悟したもので、真実のこもったもの。 他方では、弟子たちはまだ自分たちを待ち構えている運命ーー悲しみの体験、その悲しみが喜びに変えられる(16:20)に気づいていない。
 あと二回、この物語を学ぶが、まとめにキルケゴールの言葉を引用したい。
「『この病は死に至らない』(11:4)・・・キリストが現にそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである。思うに、人間的にいえば、死は一切のものの最後である。しかしキリスト教な意味では死はけして一切のものの終りではなく、死もまた永遠の生命の内部における、一つの小さな出来事にすぎない。キリスト教的な意味では、この死のうちに、無限に多くの希望があるのである」(「死に至る病」)。