建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ラザロ(3)

週報なしー34

ラザロ(3)

テキスト:ヨハネ11:28以下

28~32「こう言った後、マルタは行って姉妹マリアを呼びささやいた『先生がいらしてあなたを呼んでおられます』。これを聞くとマリアは急いで立ち上がってイエスのもとに行った。イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えた場所に留まっておられた。ユダヤ人たちは、マリアと共に家にいて彼女を慰めていたが、彼女が急に立って出ていったので彼女について行った。彼女が墓に泣きにゆくと恩つたからである。マリアがイエスのおられる場所に来た時、イエスを見てその足元にひれ伏して言った『主よ、あなたがここにいてくださったとしたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』」。

 

 17節以下のマルタとイエスとの対話にくらべて、このマリアとの対話では、何か決定的な言葉はイエスからは聞かれない。23節以下にあった、ラザロのよみがえりについてのイエスの言葉も。イエスに対するマリアの言葉(32節)はマルタのそれ(21節)と全く同じであるが、マルタの示した信頼の言葉(22節)はマリアからは語られない。ただ「急で立ち上がって」29、31節によってイエスに対する彼女のある種の期待が、またマリアのイエスに「ひれ伏す」行動と「主よ」という呼び掛けのみが、イエスへの思いを示しているにすぎない。それゆえ、この箇所は内容的に、マルタの箇所よりもみすぼらしく感じる。31節にある「マリアが墓に泣きにゆく」は、ユダヤ教の死者の死を悲しむ習慣。
 33~40「イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣くのを見ると、心の中で激怒なさり興奮された。イエスは言われた『ラザロをどこに納めたのか』。二人(マルタとマリア)は言った『主よ、来てごらんください』。イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちが言った『見よ、何とラザロを愛しておられたことだろう』。しかし数人の人は言った『盲人の目を開けたこの人は、このラザロを死なないようにすることはできなかったのか』。イエスはあらためて心で激怒なさって墓に行かれた。その墓は洞穴で(入り口に)石が置いてあった。イエスは言われた『石をのけなさい』。死んだ人の姉妹マルタがイエスに言った『主よ、亡骸はすでに腐り始めています。死んでもう四日もたっています』。イエスがマルタに答られた『あなたが信じるならば神の栄光を見る、とあなたに言ったではないか』」。
33節「イエスの激怒の理由」はわかりにくい。「激怒する」という用語は「いきり立つ、憤る」など怒りの感情表現。ここでは、ラザロの死ゆえの悲しみ、苦痛、憐れみによる心の激動というのではない。この用語はあまり多く用いられず、マタイ9:30、イエスの癒しで「二人の目が開いた。するとイエスは<いきり立って>二人に言われた『気をつけて誰にも知られないようにせよ』」、マルコ1:43でも「イエスは<いきり立って>すぐにその人(癒したらい病人)を追い出した」ではその意味(怒る、憤激する)で使われた。ーーこの憤激の理由には、二つ考えられる 一つはラザロに死をもたらした「生命を減ぼす死の力に対する怒り」である。もう一つは、塚本訳など。イエスの憤激の「理由」をマリア、同行のユダヤ人たちが嘆き悲しむことを「不信仰、信仰のなさ」とみる。ブルトマンの注解も同じで「マリアやユダヤ人たちの嘆きが、激しくイエスを憤激・興奮させた。これは、嘆きによって示された<彼らの信仰のなさ>に対するイエスの怒り・憤激としてしか理解できない。この奇跡物語での信仰のなさは、死人をよみがえらせるイエスの力に対する疑いを意味する」と解釈している。ここでのポイントは「四日前のラザロの死という事実とたった今到着されたイエスがそこにいらっしゃること」この二つの事実のうちのどちらに重きが置かれるかである。イエスがここにいますという事実よりも、四日前のラザロの死をマリアも同行のユダヤ人もいまだにひきずっていたこと、そのことが「彼らの信仰のなさ」であり、それがイエスの憤激の原因になっている。マルタでさえここでは、しらけた言葉を吐いている、39節「もう亡骸は臭くなっています」。
 「興奮して」について、イエスの心の動き。興奮に奇跡の人(神的人間)の奇跡を行なうための「霊的な興奮」を読み取ろうとの誤った解釈もあったが、まとはずれである。
 35節は「イエスが涙を流した」との珍しい行為をしるしている。イエスの涙については、ヘブル5。17「キリストはその肉の生活の時には、激しい叫びと涙ともって、祈りと願いをなされ」ぐらいである。イエスの「涙を流す・ダクルオー」はユダヤ人たちの「嘆き悲しむ・クライオー」とは別の用語である。ここを(債激、興奮と共に)イエスの「人間性」を表現したものととることはできまい。それで、この涙を文脈的に、イエスの憤激、興奮につなげて、人々の信仰のなさに対する、人々への失望ゆえのもと解釈する立場と(ブルトマン)、もっと一般的にこの世のもつ悲惨さと闇、悩みと追害が表現されている、イエスはラザロの墓に向う途上で人の死の運命の闇に心動かされた、とみる解釈(シュナッケンブルク)がある。いずれにせよ、次の36節の、ユダヤ人たちの解釈「みよ、なんとラザロを愛しておられたことか」は、表面的すぎて的はずれである。ユダヤ人たちは、イエスを理解しないままである。10:20にも、イエスの言動に「あの人は惡鬼につかれている」との非難の言葉を彼らは発している。37節の彼らの一部分の見解もイエスへの無理解を示している。それにこの言葉にも非難の意味が込められている。
 イエスユダヤ人の反応に対して、またも「心で憤激された」38節前半。ユダヤ人のイエスへの無理解さ、信仰のなさに対する憤激、憤りである。
 イエスらはラザロの墓に到着した・38節後半。その墓は「洞穴・たて穴の洞穴」でその入り口の上には「石が置いてあった」と言われている。たて穴が墓の都分で、そのままでは風雨にさらされるので、石でふたをしてある構造。これは墓としてごく普通のものであった。したがって、イエスの墓横穴の洞穴に石でふたしたもの、とは異なる。
 39節「イエスは言われた『石をのけなさい』」。この命令に対して、人々が石をのける行動に移るのは、41節に至ってである。つまりこの間にイエスとマルタとの短いやりとりがある(ラザロの物語全体は、10章もそうだが、イエスと弟子たち、マルタ、マリアらとの、ユダヤ人の考えを意識した対話が各所で挿入的にちりばめられて、できるだけ先へ先へと話の頂点が引き伸ばしていく それゆえ、話全体を区切り、ていねいに読み進む必要がある) 。
 39節後半でマルタは、ラザロの亡骸がすでに腐敗し始めている事実を指摘する。死者ラザロは四日間も墓の中にいたからだと。彼女は、墓のふたの石をのける時に広がる、死臭のことを思って尻込み気味であったと思われる。
 40節のイエスの言葉「あなたは神の栄光を見るであろう」は、それ自体では内容があまり明確ではない。イエスがマルタに指摘なさったのは25~26節である。そこでは、ラザロの復活ははっきりとは語られていないーー「誰でも生きていて私を信じる者は永遠に死なない」。この26節の言葉は<信仰者に与えられる、死後にも途絶えることのない真の生命>を表現したもので「あるように」に感じられて、死人の「身体的復活そのもの」を言っているとは一見映らないから。       
 しかし「神の栄光を見る」は、すでに4節でラザロの病気と死とが「神の栄光のため」「神のみ子がそれによって栄光を受けるため」と言われ、神のみ力のあからさまな提示、すなわちイエスの(癒し)奇跡の実行の意味合いが語られていたように、ここでも「神の力」「ラザロの死と腐敗とを突破する神の力」がたちどころに明らかに開示されること、より具体的には、イエスが神から死人をよみがえらせる力を与えられていることが、意味されている。