建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ラザロ(4)

週報なしー35

ラザロ(4)

テキスト: ヨハネ11:41~46 

 41~46「するとイエスは目を天に向けて言われた『父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたがいつも私の願いを聞きとどけてくださることを私はよく知つています。しかしまわりに立っている民衆のために、このことを言ったのです。それは、あなたが私を派遣なさったことを彼らが信じるようになるためです』。
 こう言われた後、大きな声で叫ばれた『ラザロよ、出て来なさい』。その時、死人が手足を包帯で巻かれたまま出てきた。その顔は布で包まれていた。イエスは人々に言われた『といてやりなさい。そして帰らせなさい』。

 

 マリアのところに来ていて、イエスのなされたことを見たユダヤ人のうち多くの者はイエスを信じた。しかし彼らのうちの少数の者はパリサイ人のもとに行って、イエスが行なったことを報告した」
 (41後半~42節はイエスの祈り。省略)。
 43節「イエスはこう言われた後、大きな声で叫ばれた『ラザロよ、出てきなさい』」は、この物語全体の頂点をなす箇所であって、ラザロのよみがえりをうながす力強い言葉(用語的には、「叫ぶ・クラソー」は、啓示者イエスの意味では7:28、37などにあり、マタイ27:50では十字架上の最後の、死の叫びとして出てくる)。ここでの「叫ぶ・クラウガソ゛一」は、ヨハネ12:13では祭りの高揚した気分で群衆が「ホサナ」と叫ぶ、19:6、12では逆に十字架につけよとの群衆の叫び。ブルトマンの注解はこのイエスの叫びを「霊感を与えられて」と解釈し奇跡行為者の独特のものとみる。むしろここではイエスの崇高さ、力の表現、「神から派遣されたかたとしてのもの」。この叫びがよみがえりを実現する。というのは、黙示文学的な伝承では、第一テサロニケ4:16「天使の頭の声と神のラッパの響きのうちに」主が来臨され、死人がよみがえる、とあるように<神の声やみ使いの声によって墓にいる死人たちは生命へとよみがえる>とされるからである。この箇所のイエスの叫びも、このような黙示文学との関連で理解すべきである。
 先日9月6日のNHKテレビ放送「イエスはどういう人物であったか」の中で、オーストラリアのシドニ一大学の新約学者バーバラ・シーリングのラザロの物語解釈(著作名「イエスの謎」というらしい)についての紹介があった。ーーそれによれば、ラザロはもともと熱心党員で、かつクムラン教団エルサレム神殿中心のユダヤ教とは対立し砂漠に別の教団・生活信仰共同体をつくり、神殿礼拝を排除し特別の信仰理解「光の子と闇の子」など保持し、厳しい成律をもった分派)に所属していた。ラザロはシモン・マグス(行伝8:9以下のサマリアの魔術師)と同じ人物で、クムランからその思想、行動のゆえにであろうが、破門されて、ちょうど岩屋の墓のような獄屋に幽閉された。イエスもこのクムラン教団に出入りしていて、ラザロ(シモン・マグス)の一件を耳にして、その岩屋に出向いて、ラザロを解放した。ヨハネ伝のこのラザロの復活物語は、このようなラザロをイエスが岩屋の獄から解放した物語に由来するこういう解釈をシーリングはしているという。ーー19世紀以後、奇跡物語を科学的合理主義で解釈する立場がはやったが、シーリングの解釈は、それに歴史学の味付けをした「新しさ」を持っているが、イエスとクムランとの主張の相違点、敵(ローマ人)を憎めのクムランの教えに対して、イエスの敵を愛せとの主張、律法厳守のクムランと律法を無視するようなイエスの行動の違いなどを、シーリングはふまえないし、またラザロを熱心党員とみたり、シモン・マグスと同一視する根拠が薄弱な点など、この見解は受け入れがたい。
 ヨハネ11章は、ラザロをイエスが愛していた(11:3、5)、ラザロは弟子たちとも親交があった(11:11「私たちの友ラザロ」は弟子の一人と解釈できる)人物とみなしており、ユダヤにおけるイエスの弟子(他の弟子はみなガリラヤの出身である)の感じである。
 44節「その時、死人は手足を布(包帯)で巻かれたまま(墓から)出てきた。その顔もおおいで包まれていた」。ーーラザロの亡骸の手足が亜麻布で巻かれていた点は、イエスの埋葬「ユダヤの埋葬の習慣に従って、香料をかけた亜麻布で亡骸を巻いた」(19:40)と同じ。ただしユダヤ教の「習慣に従って」とあるが、ユダヤではたいていは、死者には長い、高価な服を着せるのが習わしでここにあるような布(包帯)を巻く類例はないようだ(シュナッケンブルク)。頭部も布が巻かれていた点も、イエスの場合と同じ「イエスの頭に巻いてあった布」20:7。
 ユダヤ教のラビたちは、終りの日に死人は 衣服を着たままで復活する」と考えいたが、ここでのラザロの 亜麻布のままのよみがえり」とはだいぶ違うことになる。
 したがってこのラザロの甦つた姿は人々の度胆をぬくものであったにちがいない。しかしヨハネは人々の反応については言及しないで、イエスの次の命令を伝えている。
 「布を解いてやりなさい。そして(家に)帰らせなさい」44後半。復活したラザロは通常の生活へともどっていったのだ。この「解く・アフイエーミ」は、体に巻かれた布・包帯を解くこと、さらには、彼を捕えた死・腐敗からの、つまり死の力からの完全な解放、生命の世界へのよみがえりを意
味する。死人を生かすイエスの力の行使・勝利を告げるものである。同時にこの点は、ラザロの復活という奇跡を確証するものでもあった。
 45節以下には、この奇跡に対する(弟子たち、マルタたちの反応・証言には言及せず)そこに居合わせたユダヤ人の反応を、さらに47節以下ではユダヤ教当局の対応を伝え、53節では「彼らはその日以来、イエスを殺す決意をした」すなわち、ラザロのよみがえりがイエス殺害のきっかけになったと、その衝撃を伝えている。

 まとめとして、 この物語全体をもう少し私たちのテーマとなるように、展開したい。
 第一に、このラザロの復活の物語は、後の教会史において、本当にあった出来事なのか、それともイエスが神的な力を持っていることの「象徴的な」奇跡なのか、はさまざまに解釈されてきた。
 その中で、ひときわこのラザロの復活のテーマに迫ったのは、ロシアの作家ドストェフスキーの小説「罪と罰」(1866)であろう。思想的殺人者ラスコーリニコフ(すべてを理性、合理で割り切っていく思想の持ち主)が18才の売春婦ソーニア(地獄のような生活をしながらも神を深く信じている乙女)に「ラザロの復活」の聖書の箇所を読んでほしいと頼み、ソーニアがこのヨハネ11章を読んで聞かせるシーンにおいてである。ドストェフスキーは、このシーンで、ラザロの復活に対する、いわゆる象徴的解釈をしりぞけそけ、ラザロの復活の中に、神の世界を見出だす、すなわち、神は人間的には不可能なことを可能なこととされる、人間的にはありえないことを、神は現にあるものにされること、人間的には非合理であることが、厳然たる事実として存在すること、人間的には論理を破るものである奇跡が現に存在すること、人間的には望みがないところにもなおかつ望みがあること、人間的には考えられない死後四日たった死人の甦りが起ったとの奇跡、人間的にはソーニアは飛込み自殺するか、精神病院に入るか、自棄的に淫蕩の中に身を投ずるかしかないのに、なおも敬虔な信仰を堅持して「神様を離れてどうして私が生きていられましょう」と吐露できる。とうてい赦されないような罪や罪人も神に赦されることの奇跡、ーーこういうものとしてラザロの復活を解釈している。これはこの物語の、最もふさわしい、深い解釈だと思う。
 第二に、ラザロのよみがえりの物語は、一方で福音書のイエスの奇跡物語、ヤイロの娘の生き返り蘇生(マルコ5:21以下、マタイ9:18以下ー役人の娘の蘇生)、ナインのやもめの息子の蘇生の話(ルカ7:11以下)との関連がある。
 他方で、イエスの復活との比較のほうが、その特徴が明らかになる(クレーマー「死人の未来」) 1、イエスの復活は、「イエスを死人の中からよみがえらせた父なる神」ガラテア1:1、や「キリストが死人の中からよみがえらされたように(受け身の完了形)」ロマ6:4などとあるように、イエスの復活は、神ご自身の行為として、あるいは神的受け身形で語られる。
 ところが、このラザロの復活物語では「イエスは甦りであり生命である」(26節)「御子もまた生命を与える」(5:21)とあってイエスご自身が「死人を生かす」おかたとして、イエスがその復活を実現された出来事とてしるされている。
 2、ラザロの復活は「蘇生」すなわち、死からの「暫定的な解放」にすぎなかった。それゆえラザロはやがて死ぬ運命にある(教会史はラザロについて、さらに30年生き、キプロスで活動し、らい病で死んだーールカ16:20と伝えている)したがってラザロは「地上的な身体」によみがえった。これに対して、イエスの復活は、死からの「究極的な解放・救い」の出来事であった(「死はもはやキリストを支配しない」ロマ6:9)。しかもイエスの復活はすべての信仰者の復活を根拠づけるものである(「あなたがたもキリストの復活の姿にも等しくなるであろう」ロマ6:5)。ラザロの復活はそうではない。
 3、ラザロの場合とはちがって、イエスは地上的な身体によみがったのではなく「霊の体」(第一コリント15章)によみがえった(ルカ24:36「イエスご自身がみなの真中に現われた。弟子たちはぞっとして震えあがり幽霊でも見ているように思っていると」、ヨハネ20:19「弟子たちのいる部屋の戸に鍵がかかっていたのにイエスは入って来られ」)。
 第三に、この物語全体から。ラザロが病気になった時、マルタら姉妹はイエスに対して、すぐにもイエスが来られてラザロの病いを癒してくださるように嘆願した。しかしイエスの対応はちがっていた。これは信仰者の願望とその人に対するイエスの御心の違いのポイントである。イエスを信じる者も、苦しみ、病、死への不安の中で、イエスの力、助けを疑う、という試練の中に置かれるーーマルタのようにである。イエスはラザロをも、マルタ、マリアをもお助けになった。しかしそれは彼らが考え・願っていたこととは違っていた。
 第四に、イエスは「この病気は死には至らない」(4節)と言われた。これは私たちにも妥当する言葉である。つまり私たちをみまう病や死(病死)は私たちを永遠の滅びに陥らせるものではない。むしろラザロのこの物語は病や病死は御子イエス、ラザロのために 私たちのために死の危険の中におもむかれ死に渡されたイエス、が栄光をお受けになるきっかけとなる。私たちは、ラザロのよみがえりをとおして(またさらに、イエスの復活をとおして)、永遠の死の克服をとおして、イエスがよみがえりであり生命であること(26節)、生命を与えるかたであること(5:21)、このようなイエスの栄光をおもちであること、そのことを信じることへと招かれている(「あなたはこのことを信じるか」(26節)。
 私たちがイエスの宣教と癒しなどの活動をただ偉大な人間のそれとしてのみ理解する試みは、イエスを正しく理解する、信じることにはならない。むしろ、この物語は、イエスが神から派遣されたかた(42節)、死人を甦らせる力をおもちであること、そのことが目に見える出来事をも引き起こすことがおできになること、人間のもつ苦しみ、病気、病死をも支配し、克服する力をおもちであること、つまりイエスが神の御子であることを、私たちに証言している(マルタの告白「あながキリスト(メシア)であり神の子であることを私は信じます」27節)。
 第五に、マルタのように、イエスを神のみ子と信じる者すべてに、罪と死に対するイエスの力は与えられる。イエスのこの死に対する力は、ご自身の生命をささげることをとおして、信じる者を死からお救いになる、という仕方で示される。これがいわばイエスのメシア性である。イエスを信じる者はすべて、このラザロの復活物語で示されたように、「神の栄光を見る」(40節)。すなわち、神はイエスをとおして私たちすべてを脅かす死を克服なさることを、知るようになる。この信仰的認識によって、私たちは自分自身のよみがえりと永遠の生命を待望する人間になる。
 ラザロに向かってのイエスの叫びは、 私たちすべてに向かって発っせられたものであるー「ラザロよ、出てきなさい」(43節)。将来的にはイエスのこの叫びによって、キリスト者の復活が起こる。