建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ナルドの香油

週報なしー36

ナルドの香油

テキスト:ヨハネ12:1~8 

 1~3「さて過越しの祭りの6日前に、イエスはべタニアに行かれた。そこにはイエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。その地では人びとがイエスのために夕食会を催した。マルタは給仕をし、ラザロは食卓についた人びとの一人であった。マリアは混ざり物のない高価なナルドの香油1ポンドをイエスの足に塗り、自分の髪でそれをふいた。その家は香油の香で満たされた」

 

 1節の「過越し」は、ユダヤ人の三大禁りの一つで、4月始めころ祝われた。イエスの死はこの過ぎ越しの時期に当たる。この時期人々はェルサレムに上ってくる(11:55)。文脈的にはユダヤ教当局がイエスを捕らえようとしていたことをイエスは知つておられた(11:54以下)。イエスがべタニアで一番親しいのは、マルタ、マリアで(11章)、むろん「イエスが死人の中からよみがえらせたラザロもその地にいた」。
 2節。ベタニアではイエスのために宴会、客を招いての夕食会が催された。ヨハネ伝では場所は明らかでないが「ラザロは食卓についた人びとの一人であった」は、その宴会がラザロの家ではなく、他の家、ラザロも「招待客の一人」との形で催されたことを示す。
 「マルタは給仕をし」は、ルカ10:40「ご馳走の準備でてんてこまいをしていた」マルタのイメージと重なるが、最近の女性神学では、ここの「仕える・給仕する」を「食事をつくり給仕をすること」とは見ないで「ミニスター・聖職奉仕者」つまり、その夕食会の「使徒的な奉仕者」とみる。ここでの「イエスのための夕食会」はべタニアのイエスの共同体・教会で祝われた今の「聖餐式」(デイプノンは第一コリント11:20では「主の晩餐」と訳される)のようなニュアンスがある(フイオレンツア「彼女を記念して」)。
 3節。共観福音書では女性の名は記されていないが、ヨハネ伝だけがそれをマリアと言っている。ただマリアをセム的表現「マリアム」としている読み方が多い。マリアも使徒奉仕者の一人とみなすことができる。マルタが主で、マリアが従か。                        「混じり気のない」「高価なナルドの香油」。ナルドの香油はヒマラヤ原産の香木やその根からとった香油でタルソ産。この香油の1ポンド(327グラム)の値段は300デナリとある(5節、デナリは1日分の賃金ぐらいであるから、相当高価である)。
 マリアはこの香油を「イエスの足に塗り、髪でそれをふいた」。マルコ、マタイではイエスの「頭にぬった」、ルカ7:38、40とここは「イエスの足にぬった」となっている。
 しかしカール・バルト(「神の恵みの選び」)と女性神学は、13章でイエスが弟子たちの「足を洗って、タオルでふく」(13:5)との関連に、このマリアが「イエスの足に香油をぬり、髪でふいた」行為を位置づけ、それを指し示すものとみる。この解釈は正しい。ただ食事中一人の女性が客の一人の足に香油をぬる行為(ル力伝の罪の女、ここのマリア)は、異様なことであり、ユダヤ人の感覚には不作法に映ったようだ(シュナッケンブルクの注解)。
 4~9「そこで弟子の一人でイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダが言った
『なぜこの香油を300デナリで売って(その代金を)貧しい人びとに施さないのだろうか』。
ユダがこう言ったのは、貧しい人びとのことを考えたのではなく、むしろ彼が泥棒で金庫の管理者としていつも収入分をごまかしていたからである。
 イエスは反論なさった『彼女のなすがままにしておきなさい。彼女は私の埋葬の日のためにその香油を貯えようとしていたのだ。貧しい人びとはいつもあなたがたのもとにいるが、しかしあなたがたはいつも私と共にいるとはかぎらない』」
 4~5。マリアの行為を非難する人は、マルコでは「(そこに居合わせた)数人の人」マタイでは「弟子たち」、ここでは「イスカリオテのユダ」となっている。
 イスカリオテのユダについて。「イスカリオテ」の意味はあまりはっきりしない。(1)4節の「イスカリオテの」別の読み方(異読)には「ケリオト出身の」がある。ケリオトはエレミア48:24、アモス2:2などにもある地名で、現在のカリアテン、つまりエルサレムの南方25キロ、死海の西岸マサダの西10キロの地点らしい(インタープレターズバイブル、シュナッケンブルク)。(2)「イスカリオテ」はルカ6:16の「<イスカリオテ>のユダ」の別の読み方では「シカリオス・刺客」(行伝22:38「四千人の刺客を引きつれて」だけ)、これだと「刺客ユダ」となる。(3)マルコ3:18、マタイ10,4「熱心党のシモンと<刺客>ユダ」においても「熱心党の・カナナイオス」はシモンばかりでなくユダにもかかる、との読み方がある(クルマン)。この読み方によれば、イスカリオテのユダの前身は「ナイフを持った剌客集団の出身者」でかつ「熱心党員」だったということになる(トーレイ、クルマン、だだしシユナッケンブルクは反対)。ーーだとすればユダが「イエスを裏切った」理由もわかりやすくなるーーユダはイエスをローマの支配からの独立をめざすユダヤ民族の解放者と思い込みその見込みが裏切られたと思ってイエスを裏切ったことになる(プリンツラー「イエスの裁判」)。    
 この世的な思いとイエスに対する「思い」のどちらに自分の心があるか、より具体的には「イエスに香油をぬるマリアの行為をどう見るかで、その人のイエスへの思いは明確になる」というのが眼目である。
 マルコ、マタイでは、その女性(マリア)の行為への非難の理由は、一般的な慈善的行為、貧しい人びとへの施しの視点からなされている。「なぜこんな<無駄づかい・浪費>をするのか。これを高く(マルコでは「300デナリで」)売って貧しい人々施しができるのに、と<弟子たちは憤って言った>」マタイ26:8~9。ーーマタイ伝はユダに限らず「弟子全体」が、その女性の行為を「無駄ずかい、浪費」として非難した。「貧しい人々への一般的な慈善行為」という合目的な視点から見ると、イエスへの高価な香油ぬりは「浪費」としか考えられないからである。イエスへの奉仕とこの世への「貧しい人」への奉仕が、ここでは鋭く対立するのである。もう少し突っ込んで言うと、マリアのイエスへの香油塗は、ユダ、弟子たちの言うとうり「浪費」なのか、それともイエスへの「献身・奉仕」なのか、というポイントである。
 6節では「ユダが盗人」と述べるが、これについてバルトはこう解釈したーー
 「ユダは、マリアがその捧げ物によってイエスに栄光を帰すことを全く取るに足りないことと思っている。イエスに従うことは、彼にとって目的ではなく、何かほかの目的(ユダヤ民族の解放?)のための手段であった ユダはこの目的について自分で決定を下しうると信じ、さらにこの自分の目的達成のためにはイエスへの関係をいくらでも<なおざりにできる>と考えていた。彼が主張する、貧しい人への施しもしょせん<彼自身の業>であり、施しに対しても彼自身が<主導権をとる>ことが眼目なのである。このような仕方で、ユダはイエスや他の弟子たちの<盗人>になっていた」。
 7節前半ではイエスは「反論・叱責なさった」とある。イエスはユダ(弟子たち)を非難されマリアを弁護されるのだ。後半「彼女のなすがままにしておきなさい。彼女は私の埋葬のために<その香油を貯えていたのだ>」(マルコ14:8「前もって私の体に油をぬって葬りの準備をしてくれたのだ」。マタイ26:12もほぼ同じ。ー一ここではマリアの香油ぬりは「浪費」ではなく「イエスの理葬のために」なされた奉仕の行為である、とイエスは説明なさる。マリアがイエスの死、埋葬を前もって予知してこの行為をした、というのではむろんあるまい。マリアの香油ぬりを「ご自分の埋葬のため」と「解釈した」のはイエスご自身であって、イエスは自分の「死と埋葬」を予知されていたのである。8節後半、12:32「私が地から挙げられる時」、35「もうしばらくの間、光はあなたがたのところにある」。マタイ26:13では「世界中のどこででもこの福音が説かれるところでは、この女性のしたことは、彼女の記念・想起のために一緒に語り伝えられるであろう」とイエスは彼女をほめた。
 8節の「あなたがたは私といつも共にいるわけではない」は、イエスがご自分の死について示唆したものである。それゆえ「今ここでのイエスの臨在」は死を前にした「緊迫した時点」を表している。 しかし、ユダや弟子たちの慈善の発言にはこのような「イエスの死の時の接近」の意識も「イエスの臨在の重さ」への認識もない。
 この物語全体から学ぶべきことは、
(1)人間的にみれば、教会生活、費やす時間、エネルギー、献金などは「浪費・むだ使い」にみえるかもしれない。しかし、マリアの目から見れば、ナルドの香油が心をこめて貯えたものであったのと同様に、それは日々の生活の中で「貯え」、聖別したイエスへの献身を示し、証しするもである。
(2)マリアの行為は、イエスの死と埋葬に栄光を帰すものであった。信仰者は、この人生に何か重要なことがあって(ユダにおける貧しい人への施し、ユダヤ民族の解放など)、それに比べればイエスへの献身はとるにたりないことだ、とは考えない。私たちはこのマリアの献身からイエスの死に栄光を帰すことこそ、信仰者にとって大事だということを学びとりたい。