建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ペテロの説教ー1 ヨエルの預言の成就

週報なしー10A

ペテロの説教ー1  ヨエルの預言の成就

テキスト:使徒行伝2:14~21

 14~16節「するとペテロは11人(の使徒)と共に進み出て、声を張り上げておごそかに人々に語りかけた。『ユダヤ人たち、エルサレムの住人すべてのかたがた、このことを知つていただきたい私の言葉に耳を傾けてください。この人たちは(あなたがたが考えているように)酒に酔っているのではない。今はまだ朝の9時なのだから。むしろ、ここで、預言者ヨエルによって語られたことが成就したのだ。
 《神がおおせられる、最後の日に、私はすべての肉に私の霊から注ぐであろう。するとあなたがたの息子たち娘たちは預言し、また青年たちは幻を見、老人たちは夢で幻を見るであろう。そしてその日には、私の僕たちとはしためたちとの上に私の霊を注ごう。すると彼らは預言するであろう。そして私は上の天には奇跡を起こし下の地にはしるしを示そう、すなわち、血と火ともうもうたる煙とを。主の大いなる輝きの日が来る前に、日は暗間に、月は血に変わるであろう。そして、主の名を呼ぶ者はすべて救われるであろう》(ヨエル2:28~32)=70人訳』」

 

 人々の緊張が最高に高まった時、ペテロが11人と共に前に進み出て、話始めた。14節では、ペテロは「声をはり上げて語った」とあって、この説教の重要性を強調している。15節のペテロの言葉は、13節における「酔っている」との非難に対する弁護で、朝の9時から酔う者などいないという事実を引き合いに出す。
 16節では、ペテロはもっと積極的に、キリスト者たちの「脱我的な行動とみえるもの」について説明する。「ここで」は、キリスト者たちがさまざまな外国語を話したこと。そのことは、預言者ヨエルの言葉が成就したものだと。ヨエルは前4世紀前半の預言者。 「ヨエルによって語られたこと」は神がヨエルをとおして「語りたもうた」の意味。
 17節。ここから21節までは、ヨエル書の引用であるが、ルカが付加した部分がある。17節では「神はおおせられる、最後の日に」、19節の「すると彼らは預言するであろう」がそれ。
 ここの「最後の日に、私はすべての肉に私の霊から注ぐであろう」は、少し難しい。
 「すべての肉」は、旧約的には「すべての人」を意味するが、この時点では、霊が注がれるのは「ユダヤキリスト者のみ」で、「すべての人」ではない。ルカは、霊の注ぎについては、二段階を考えており、第一段階が、このエルサレムにおけるペンテコステで、ユダヤキリスト者に、であり、第二段階は、カイザリア(エルサレムの西方にある港町)のローマ人(異邦人)の百卒長コルネリオらの洗礼の時点で、異邦人に、である。
 「ペテロがまだこれらの言葉を話しているうちに、聖霊がその言葉を聞いているすべての人に下った。ペテロと一緒に来た割礼のある信者たちは、聖霊の賜物が異邦人にも注がれたことに、あっけにとられた」(10:44~45)。言い換えると、ペテロはこの箇所で、ヨエルを引用してはいるが、ペンテコステにおいては、「すべての人」に霊が注がれるのではなく、その先取りとして、ユダヤキリスト者のみであるという意味で言っている。
 「預言する」(18節も)は本来、特別の賜物であるが、ここでは、霊の賜物によってすべての人に与えられる「預言的な賜物」で、具体的には「預言的な霊の働き」のこと。これにはいくつかのことがあって、ここでペテロが強調しているのは、(1)キリスト者たちが「さまざまな外国語を話したこと」である。次に(2)「幻を見る、夢で幻を見る」である。「幻」と「夢」のうち、「幻=オラセイス」については、9:10ーーパウロ、10:11以下ーーペテロ16:8ーーパウロなど。
さらに、(3)「預言をするであろう」=19節もこの「預言者的な霊の働き」。ここはヨエルにはなく、ルカが付加したもの。その意味は後述。
 18節の「私の僕とはしため」は、使用人の意味ではなく、神の奉仕者の意味で、ここではキリスト者を指している。
 19~21節は、世の終わりの宇宙的な異象、19節の「日は暗闇に、月は血に変わる」は、マタイ24:29以下の「日は暗く、月はその光を放つのをやめる」などと似ている。
 この19節では、黙示文学的に表現された未来が描かれるが、ポイントはペンテコステにではなく終わりの時の前に起こる(20節)、宇宙的な異象に置かれている。ルカは「終わりの時」(17節)に二つの出来事、霊の降臨(17後半~18)と宇宙的な異象(19~20)とが起こると見ているがヨエルでは、この二つは同時に起こるのだが、ルカでは、霊の降り注ぎは「今」おこっているが(ペンテコステ)、宇宙的な異象、究極的な「主の大いなる日」はさらに未来の事柄である。言い換えると、今の時は、すでに「霊の降り注ぎ」が起こって、ある種の終末に入っているのだが、これに続くのは、「主の大いなる日」、終末そのものではなく、いわば、「教会の時」、世界伝道の時である。ルカによれば、時は、霊の降り注ぎ、教会の時(世界伝道)、終わりの時(未来)というふうに推移していく。
 21節の「主の名を呼ぶ者はすべて救われる」の「主」はヨエルでは、神のこと。ここでは、イエスのこと。