建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ペテロの説教ー2 イエスの復活についての預言の成就

週報なしー10B

ペテロの説教ー2 イエスの復活についての預言の成就

テキスト:使徒行伝2:22~36

 22~24節「イスラエル人よ、この言葉を聞いてください。ーーナザレ人イエスは、あなたがたが知っているとおり、神がこの人によってあなたがたの中で数々の力ある業、奇跡、しるしを行いうことによって(救い主であることを)神から証明されたかたである。このイエスは神の定めた摂理と予見によって渡されたが、あなたがたはこのかたを律法を知らない(異教の)人々の手によって(十字架に)はりつけにし殺してしまった。しかし、このかたを神は死の苦痛から解き放ち復活させられた。このかたが死の力によって留めておかれることができなかったからである」。

 

 イエスの「奇跡=テラス=力ある業=デュナミス=しるし=セーメイオン」は、癒し奇跡など。  ここでは、この奇跡は「神がイエスによってなされた」もの、つまり、奇跡においてイエスは神の「代理者」であったという表現は目に付く。また、その奇跡をとおして、イエスは「神から救い主として正当な者として認められた」点も注目に値する。パウロでは「み子は死人からの復活によって神のみ子と定められた」(ロマ1:4)、つまり、イエスが神のみ子と定められたのは、「復活」によってであることが強調される。これに対して、ルカは、癒し奇跡によって、イエスが救い主でありたもうことが「証明された」点を強調している(22節)。
 23節はやや難しい。一方では、イエスは「神に定められた摂理(ブーレー)と予見(プログノーシス)によって(十字架に)渡された(エクドトン)」。同時に、他方では、イエスを「あなたがた=ユダヤ人は律法を知らない人々(ローマ人)の手によってはりつけにして殺した」とある。ここでは、イエスの十字架の運命は、神の側からは「神の摂理」として起こったとされ、同時に、人間の側からは「ユダヤ人がローマ人によって殺させたもの」と語られ、いわば逆説的に解釈されている。ここでは、イエスの死に罪があるのは、ユダヤ人であり、ローマ人はその手段的存在でしかない。このルカの十字架解釈は深い。このポイントは、4:27以下では「ヘロデとピラトとは、聖なる僕イエスに敵対して都に集まり、あなたのみ手とみ心(ブーレー)があらかじめ実現しようと定められたことをなした」とあって、ヘロデとピラトは、神の摂理=イエスの十字架実現のための「器=手段=代理者」とされていて、ルカの十字架解釈はさらに先鋭化している。
 24節は、23節と明白な対照をなす。ユダヤ人はイエスを殺した(23)、しかしそのイエスを神はよみがえらせた(24)。「死の苦痛=オーディノス」は普通は産婦の「生みの苦しみ」の意味(マタイ24:8など)、転じて「メシア的な苦しみ」。ここでは、この「死の苦痛」は死の力に対する謎に満ちた表現として理解されている。「解き放った」は人間たちを縛り付ける死の力と関連づけられている(ヘンヘン)。イエスの復活は、イエスをめぐる「神義論」への回答であり、律法違反の罪で有罪判決を下したユダヤ人の罪をいやまして明らかにし、イエスの無罪性をいやまして明白にする。神はイエスとその活動にこの復活をとおして「しかり」を言われたのだ。
 25~28節  詩篇16:8~11   詩篇における復活の証言
 「というのは、ダビデがイエスについてこういっているからである。
  『私は絶えず目の前に主を見た、
   主は私がぐらつかないように、私の右側にいてくださるからである。
   それゆえ、私の心は楽しく、舌はうたを歌って喜んだ。
   しかも私の肉体も希望によって安らうであろう。
   あなたは私の魂を黄泉に捨ておくことなく
   あなたの聖者(メシア)が朽ち果てるのを見るのを許されないから。
   あなたは(復活への)命の道を私に知らせてくださった。
   あなたはあなたのそばで私を喜びで満たしてくださるであろう』」
 詩篇16では、ダビデの詩とあるから、25節の「ダビデが・・」という表現が出てくる。詩篇では死は悪人に対する罰であるから、彼らの死より前に、神が敬虔な者を死ぬ目にあわすことをなさらない、との確信がうたわれる。
 これに対して、キリスト教会は別ように解釈し、この詩の語り手ダビデはメシアの復活を預言したとみた。「イエスについて言っている」というのは、教会の、あるいはルカの「解釈」である(おそらくこの解釈は、ルカ以前のものであろう)。したがってここの引用の「私」はイエスのことをさす25、26節は十字架の死の時点のイエスの姿と解することができる。「この姿」は、マタイ、マルコの十字架上のイエス、神に見捨てられて死にゆく姿とは全く異なる。神に自分を委ね切った敬虔な者の「不思議な安らぎ」がある(ルカ23:46「父よ、私の霊をみ手に委ねます」)。25節=
「私の心は(苦難の中にあっても)楽しく、舌は喜びうたう」。「私の肉体も希望によって安らうだろう」(26節)は、イエスご自身の「体のよみがえりへの希望」を言い表わしたものとも読める。27節の「私の魂を黄泉に捨ておくことをせず」では、初期のキリスト教の考えーーイエスの魂は黄泉にいかれたが、そこにとどまってはいなかった、との見解を言っている。そして後半の「あなたの聖者」はメシア・イエスの墓の中にいる状況を指している。神はメシア(イエス)が墓の中で「朽ち果てるのを見ない」=許されない、これはイエスの復活への力強い預言である。28節の「命の道」は、明らかに、27節のメシアの体が「朽ち果てない」を積極的に表現している。それが「命=復活= 復活の命」である。
 とにかく、旧約の「復活についての箇所」、たとえば、エゼキエル37章の枯れた骨の復活、イザヤ26章「あなたの死者は生き、彼らの亡骸はよみがえるであろう」(19節)、ダニエル12章など(多くの者の復活)でなく、詩篇のこの箇所をイエスの復活への預言と解釈した、初期のキリスト教の、それを受け継いだルカの解釈の力はものすごい、と感じる。
 このように旧約の箇所を「解釈すること」、これこそ先の2:18節「彼ら(キリスト者たち)は予言するだろう」、すなわち「預言者的な賜物」の意味である。ペンテコステの出来事における「霊の降り注ぎ」の一つは、キリスト者が霊感を与えられて、新しい目で旧約の箇所を「読み直し」、それをとおしてそれまでには気付かなかったその箇所の「意味」を「引き出す=解釈する」ことができるようになったーーこれが「預言する」、預言者的な賜物の意味である。行伝では、他に8:26以下で、エルサレムでの迫害を逃れてサマリアに行った使徒ピリポがあるエチオピア人にイザヤ53章について「この聖書の箇所から始めて、イエスのことを宣べ伝えた」(8:35)例がある。

エスの復活の証言                                     2:29~32節「兄弟たちよ、族長ダビデについては私はあなたがたに率直に言うことができる。彼は死んで葬られて、その墓は今日まで私たちの間にある、と。彼は預言者であって、神が『彼に、その子孫の一人を王位につかせよう』(サムエル下7:12以下)との誓いを『立てられた』のを知っていたので、前もってキリストの復活について次のように語ったのであるーー『彼(キリスト)は黄泉に捨ておかれず』、彼の肉体は『朽ち果てることもない』と。このイエスを神は復活されられた私たちはみなその証人である」。
 29節の「族長ダビデ」は少し奇異である。通常は族長は、アブラハム、イサク、ヤコブに用いられるから。ここでは、30節の「子孫」との対比で、またイエスの系図(マタイ1章)をふまえて、「祖先」ぐらいの感じ(塚本訳)。ダビデの墓についてエルサレムの住人は知つていたようだ。30節のダビデを「預言者」というのは、サムエル下7:12以下の預言者ナータンによる預言ーー「ダビデの子孫の一人を王位につかせよう」を「知っていた」ので、先の詩16にあるようなイエスの復活についての預言をした、ということ。また、「誓いを立てた」は詩132:11「主はまことをもってダビデに誓われた、『私はあなたの身から出た子の一人をあなたの位につける』」をふまえて、言われている。ダビデは、ナータンのメシア預言や詩篇の預言を「前もって知っていた」ので、旧約の預言者一般ではなく、イエスとその復活の「預言をする者」たりえた、との意味で預言者だというわけである。
 32節は、ダビデの死後の状況との対比(29節)で、31節「ダビデとは違って、彼(イエス)は黄泉に捨ておかれず、彼の肉体は朽ち果てることもない」を受けて、神は、ダビデの預言のとおりにこのイエスを復活させられたもうた、という。その証拠、証人が、ペテロらの使徒キリスト者である。1:8では彼らは「イエスの証人」とあったが、ここでは彼らは「復活の証人」である。33~36節「その後、彼(イエス)は神の右にあげられ、父から約束の聖霊を受け、この聖霊をイエスは注いでくださった、あなたがたが見たり聞いたりしたとおり。というのは、天にのぼったのはダビデではなく、むしろダビデ自身はこう言っているからです、
《主は私の主(イエス)に語られた、》
                                                                                      未完