建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

主の晩餐

週報なしー18

主の晩餐

テキスト:第一コリント11:23~25

 「私が主から受けていたこと、そのことを私はあなたがたにも伝えた。(すなわち)『主イエスはご自身が渡された夜、パンをとり、感謝して、それを裂き、言われた、これはあなたがたのための私の体である。《私を思い出すために》このようにしなさい。食事の後、杯を同じようにして言われた、この杯は私の血による新しい契約である。あなたがたが飲むごとに、《私を思い出すために》このようにしなさい』。あなたがたはこのパンを食べ、杯を飲むごとに、主の到来するまで、主の死を宣教するからである」

 

 パウロは「主から受けていたこと」、主の晩餐の伝承を特別の啓示を受けたということではなく、先達の使徒たち、信仰者たちから伝承(聖なる伝承)として手から手へと、いわば人間的な伝達方法で伝えられたことを言っている。そのことをパウロは「主から受けた」と表現した。その伝承は23節後半から25節までである(コンツェルマンの注解)
 23節の「それを裂き」は原語ユーカリステオーから聖餐式ユーカリストの用語が生まれた。これは20節では「主の晩餐」と呼ばれている。ここでの主の晩餐、聖餐式は「パンをとり感謝の祈り、パン裂き」すなわち共同の夕食と「食事の後」に一つの杯からぶどう酒を回し飲みすること、の二つの部分からなっていたようだ。
 24節はいわゆる「最後の晩餐」をふまえて述べられている。「主イエスは渡された夜パンをとり、感謝して、それを裂き…」。
 次の「これはあなたがたのための私の体である」は少し難しい。「私の体」は、他に有力な異読がある。一つは「あなたがたのために《裂かれる》私の体」。これは「十字架において裂かれたイエスの体」を意味している。もう一つは「あなたがたのために《引き渡される》私の体」(=ルカ22:19、ルタ一訳)。これだと、十字架につけられたイエスの体」の意味となる。ルカ伝の最後の晩餐の記事とこの24節はよく似ているが、ルカ22:19は有力写本に出てない(塚本、レンクシュトルフ)。ともあれ「私の体」は十字架の苦難と死の「体」を意味している。
 しかし間題はもっと複雑である。「最後の晩餐」マルコ14:22「とれこれは私の体である」の場合はそれでよいと思うが、この「主の晩餐」聖餐式の食卓においける「私の体」は必ずしもそうではない。パウロにおける聖餐式の場合、主イエスの十字架の死の後に、復活も、高挙もすでに実現した時点で行なわれた。言い換えると、ここでの主イエスは死を前にした方ではなく、よみがえられ、高く挙げられたかたである。だからこの「私の体」は「死んだイエスの体」であるのか、あるいは「高く挙げれた方の体」であるのかが論議される。
 「あなたがたのための」は、あなたがたの「罪の赦し・贖罪のための」あるいは「あなたがたに成り代って・代理的な犠牲の死」を意味する(コンツェルマン)。イエスの死が「救済的な意味をもっている」ことをいっている(後述)。聖餐式の眼目は「ではどのようにしてイエスの死のもつ救済の意味がキリスト者にもたらされるか」にある。それについてここでは目的と手段の二つが述べられている。
 聖餐式の執行の目的は「私を思い出すために」とある。ここは協会訳では「私の記念として」とある。「思い出すこと・アナムネーシス」は思い出すこと以上のことであり、その事柄、主イエスの代理的死が時間と空間を超えて、サクラメント・《礼典的に反復され現在化されること》を意味する。したがって「記念」という訳語はふさわしくない。「記念」という場合には人は現在から過去へと舞い戻っていくが、聖餐式における礼典的要素はむしろ逆に、過去(過去の出来事)が儀式の執行の中で現在化される点にあるからだ。
 リーツマンはこの表現をギリシャにおける故人のための思い出・追悼の食事会から解釈しようとして、こう結論づけた。パウロのいう聖餐式の定式での眼目は、弟子たちとイエスとの絶えざる食卓の交わりをまねることではなく、むしろ最後の晩餐を反復することであったと。しかし、厳密に考えると、ここで反復されるのは「最後の晩餐」ではなく、「イエスの苦難と死」、すなわち「救いをもたらすイエスの死」と考えるべきである。
 エレミアスは、「思い出すために」との表現をギリシャの死者の思い出のための食事会に由来するとみることはできない、むしろ旧約聖書ユダヤ教の祭儀に由来するとみる。重要なのはユダヤ教的な祭儀的な「思い出すこと」の定形表現、具体的には「過越し」の祭りである。出エジプト12:14「あなたがたはそれを《想起するために》この日を過ごしなさい。あなたがたはこの日を主の祭りとして祝いなさい」。すなわち「思い出す」内容は故人といった人間ではなく「神を思い起こす、神が現実に行なわれた恵みを思い起こすこと」であった。神の救いの出来事、出エジプトが祭儀として祝われるたびに、その救いの出来事は反復され、現在化され神の救いは新たに体験された。他方、イスラエルによる祭儀の執行は、神によってイスラエルを思い出してもらうためのものであった(民数10:9、詩20:4)。詩111:6「義人は永遠に(主によって)思い出される」。すなわちイスラエルは神の恵みの対象であり続けることを祭り、過越しのたびに確認しつづけた。しかし最後の晩餐は過越しの食事の一つであったが、パウロがこの聖餐式を過越しの食事とはみていない点は決定的である。パウロが眼目としているのは、イエスの十字架の死と復活(の体、エクレシア)である。
 「私を思い出すために」の意味を解釈したい。第一に、プロテスタント教会が「主の晩餐」と呼ぶこの儀式は、23、24節からいわゆる「最後の晩餐」と密接に結びついていることは確かである。「主イエス」は単純に十字架のイエスにとどまわず、同時に復活して高く挙げられたイエスでもある。それゆえ「私を思い出すために」はさしあたり最後の晩餐をでなく、ゲッセマネゴルゴタにおける「主の苦難を思い出すために」を意味している。
 第二に、「これはあなたがたのための私の体である」という場合、「これ」は裂かれたパンである。すると儀式における「パンがイエスの体である」ことになる。しかし儀式のパンがそれ自体イエスの体であるとの見解は、カトリックの「化体説」の立場であって、祭壇に捧げられることをとおして物質のパンはイエスの体に、ブドウ酒はイエスの血に変化する(彼らはこれを化体といった)という見解。
 プロテスタント教会はこの見解に対して反対した。ハイデルベルク信仰間答はこういう「聖餐式におけるパンも、礼典の様式と用法においては、キリストの体と呼ばれてはいるが、キリストの体そのものになるわけではありません」(問78)。またパンとぶどう酒を「キリストの体と血との確実なる真のしるし」と表現した(問75)。
 聖餐式はとにかく主の晩餐、食事、パンとぶどう酒の飲食である(27節)。この飲食をとおして何が実現されるのか。
 (1)ハイデルベルク信仰問答、問75によれば、裂かれたパンを食べこの杯から飲むことをとおして「第一に、主の体が十字架の上で私のために犠牲として捧げられ、裂かれまた主の血が私のために流されたこと、第二に、パンと杯とを私が奉仕者の手から受けて身体的に味わう時に、主ご自身が私の魂を、その十字架につけられた体と流された血を飲食させることをもって、永遠の生命へと至らせたもうこと、をキリストは約束してくださる」。
 (2)聖餐式におけるパンとぶどう酒の飲食は、プロテスタント教会が強調してきた、「聖書のみ」の原理、すなわち「信仰はみ言葉を聴くことによる」(ガラテヤ3:2)とどうかかわるのか。聖餐式はこのようなキリストとの言葉による交流、聴従とは別の側面を開示していると思う。それはキリストとのパンとぶどう酒の飲食を媒介にした「物質的な、身体的な」交流である。この点についてハイデルベルク信仰問答78「パンとふどう酒が時間的に制約をうけた(地上的な)生命を支えるように、主の十字架につけられた体と流された血とは、永遠の生命に至らせるための、私たちの魂の真の飲食である」。
 このポイントは10:16と関連している(次回)。