建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの死

週報なしー39

エスの死

テキスト:ヨハネ19:28~30 

 19:4~16節が大きな山場である。
 4~7「ピラトはまた外に出ていってユダヤ人に言った『見よ、私はあの人をおまえたちのもとに引き出す。私があの人に何の罪も見出さないことを、おまえたちにわからせるためである。イエスは外に出てこられた。いばらの冠りをかぶり、紫の上着をきておられた。ピラトは言った『見よ、そこにいるこの人を』。祭司長たちと下役たちはイエスを見て叫んだ『十字架につけろ、十字架につけろ』。ピラトは言った『おまえたちがこの人を引き取って、十字架につけろ。私はこの人に何の罪も見出さないのだから』。ユダヤ人は答えた『私たちには律法があって、その律法によるとこの人は死刑に当たります。この人は自分を神の子とみなしていたからです』」。

 

 ここでは、ピラト自身がイエスの弁護人となって(ヘンヒェン)、ユダヤ人、祭司長ら(ヨハネ伝ではこれが最高議会の人々である)と渡り合っている。
 「いばらの冠と紫の上着」(5節、マタイ27:28)は、マカベア第一10:20の「彼はョナタンに紫の衣と金の王冠を贈った」など、ヘレニズム的属国の王のしるしであったもの、ここでは「イバラの冠と紫の上着」であるから本来の王のしるしの「もじり」つまり「からかい、軽蔑のしるし」である。ピラトが考えている事柄は、イエスは王的な輝きも力も持つていない、ピラトにとって政治的反乱者ではさらさらない、という点である。政治的に無力で無害な存在、ローマ兵に「ユダヤ人の王、万歳」とからかわれ、かつ軽蔑と漫画的装束までさせられたみじめな存在、それがイエスである。そしてこのピラトの演出のなかで、有名な「みよ、そこにいる人を(エツケ・ホモ)」(五節後半)が吐かれるーーこの人がたとえ王だとしても、このみじめな姿のどこに王の権威、輝き、力と威厳があるのだ。これが危険なものを秘めた王どいえるのか。これがピラトのユダヤ人への詰め寄りである。
 しかし、祭司長たちは「十字架に付けよ」と叫ぶ。ピラトはやや当てがはずれた感じで応酬する「十字架につけたいのなら自分たちで十字架につけたらよかろう。この人に私は罪を認められない」(6節)。
 7節で、ユダヤ人は初めてイエス告発の理由を述べる。「この人は自分を神の子とみなしていた」は、ユダヤ人はイエスを「神の子」と名乗る、瀆神者(5:18、10:33、36)、自分の存在を神と同じものとみなす、宗教的犯罪者と断定し、死罪に該当する(7節前半)と述べる。しかし、宗教的犯罪者はピラトが審く対象ではない。ユダヤ人は宗教的犯罪の事実から政治的犯罪への「意識的ずらし」をしているわけだ。政治的犯罪に関しては罪に問えない者であっても、すでに宗教的犯罪事実がある場合、その者の心証は悪くなり、微妙に政治的な心証も悪く、白からグレイに変えられていく。
 8~12「さてピラトはこの言葉を聞くと、いよいよ恐ろしくなり、再び総督官邸に入り、イエスに言った『おまえはどこからきたのか』。しかしイエスは何もお答えにならなかった。そこでピラトは言った『おまえは私には話さないのか。私にはおまえを釈放する力もまた十字架につける力もあることを知らないのか』。イエスは答えられた『あなたは上から与えられたものでないならば、私に対しては何の力もない』。それゆえ私をあなたに渡した者はもっと大きな罪がある』。それでピラトはイエスを赦そうと試みた。しかしユダヤ人たちは叫んだ『もしあなたがこの人を赦すならば、あなたはカイザルの友ではない。自分を王にする者は誰であろうと、カイザルに逆らうのです』」
 ピラトが感じた「恐れ」は、自分の存在を神と同じものとみなす「もの」に対する畏怖の感情(ヌーメン感情)である(シュナッケンブルク)。イエスの存在のもつ何か、18:6における捕り方が「私がそれだ」とのイエスの顕現定式の言葉に反応したもの「後ずさりして倒れた」と同じもの。
 9節の「おまえはどこから来たのか」は、イエスの存在の由来に対する問いかけであって、18:38「真理とは何か」よりもはるかに具体的にイエスの本質への問いとなっている。そこにはピラトに感じた「恐れ」から発した「不安」の響きがある。ピラトは外面的にではあれイエスの存在そのものに、どこかで「触れた」のだ。この不安によってピラトは一歩退いて、自分のもつこの世的な権力の誇示に逃げ込む。10節。確かにピラトは総督として属領の住人の殺生与奪の権限をもっていた。
 11節ではイエスは沈黙を破って、地上的な権力に対抗する「上からの力・イクスーシア」の存在を提示される。「上から」は「神から」と同じ(3:37)。ここでの眼目はイエスの運命(釈放か、十字架か)を握っているのはピラトなのか、少なくともピラトはそう思っているが、それとも「上からの力、イエスに対する神の力」なのかである。イエスの苦難に上からの力、神からの力、神の秘儀が働いてことが、この言葉から明らかとなる。ーー11節後半の「私をあなたに渡した者」は単数形であるから、塚本訳はユダと解した。しかしそれは誤解である。「渡した」で想定できるのは6節の「祭司長たち」であるが、それは複数形なので、時の大祭司カヤパとの解釈がよい(11:49)。これがヨハネの意図でもある。ヨハネ伝ではイエスを十字架につけるのはピラトよりもむしろユダヤ人なのだ。それが「私をあなたに渡した者・カヤパの罪は、あなた・ピラトよりもはるかに重い」11節後半の意味である。
 12節でユダヤ人たちは、ピラトの急所をついてきた。「この人を赦すならば、あなたはカイザルの友ではない」はピラトがセヤーヌス(チベリウス皇帝の重臣)の腹心とされていたことをふまえた、ピラトへの脅しである。赦免にしたらセヤーヌスに直訴してピラトを失脚させようとの脅迫である。「自分を王にする者は誰でもカイザルに逆らうのです」も、ユダヤ人の「王」という宗教的意味合いを政治的意味にこじつけている。ピラトのイエス赦免の試みを封じるためである。
 14節の「みよ、おまえたちの王だ」は、ピラトはユダヤ人たち全員にも、反逆罪の烙印を押し、 ローマに対する「彼らの見せ掛けの忠誠」に対して一矢報いたのだ(ブリンツラー)。15節のピラトの言葉「おまえたちの王を私が十字架につけてよいのか」は皮肉をこめて、イエスの十字架が明らかにユダヤ人の要求によって行なわれることを彼らにたたきこむために、ピラトはこういったのだ。火のでるような緊迫したやりとりである。
 ユダヤ人はしゅんとはならなかった。むしろ「私たちにはカイザル以外に王はいない」15節後半という、不可解な、意味慎重な、神信仰を放棄した、いわばローマ皇帝への偶像礼拝的発言で切り返したのだ。ヨハネ伝はここで、ユダヤ人の王が本来「神」であるはずなのに、その信仰告白を放棄してしまったことを強調している。イエスを見捨てることで、ユダヤ人は「神」信仰を放棄した、すなわち自分を放棄してしまったことが明らかになるのである。他方、根本的にイエスを十字架につけたのは、ピラトではなく、ユダヤ人やカヤパらであることをヨハネ伝は告げようとしている。16節の「ピラトは十字架につけるためにイエスを彼ら(ユダヤ人)に引き渡した」は、ピラトがユダヤ人の告発者に屈したこと、自分の決断によるものでないことを意味している。
 17~30節は受難物語の最後の部分である。17節「イエスは自分で十字架をかついで、いわゆるされこうべの所へ出て行かれた」は何でもない記述にみえるがポイントとなる。マタイ27:32などでは、十字架への道の途上で、例の「クレネ人シモンに出会ったので、兵卒らはこの人にむりやり十字架を負わせた」とある。つまりイエスの無力さが描かれるが、ここではイエスは毅然としてご自分で十字架をかつがれる。「担ぐ・バスタゾー」はルカ23:26などと(フェレオー)違って、病や弱さに耐える、という感じが強くなる。
 25節以下には、十字架の「わきに」母マリア、母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリアらの女性がいた。この点もマタイ27:55「そこには遠くのほうから眺めていた女たちがいた」と違う。ヨハネは独自の資料を用いたとされる。十字架の「もと」と「遠くから」の違い、女性たちの名の違い、さらに男の弟子たちは他の福音書にはいないのに、ここには例の愛弟子がいる。「イエスは母のそばに立っている自分の愛する弟子をみて、母に言われた『これがあなたの息子です』。その弟子に言われた『ごらんなさい、これがあなたの母です』」26~27節。ここもよくられたヨハネ伝独自のもので、愛弟子と母マリアとを互いに結びつけている。これまで愛弟子と母とは結びつけられていない別々に行動していた。愛弟子を養子にするようにとの指示ではなく、イエスがそれぞれの仕方で愛してきた存在、親(シュナッケンブルクはマリアを「真の救いを求める集団を代表する女性」と解するがどういうものか)、弟子は「イエスの死」において一つに結合され、親子、師と弟子という地上的絆とは別の「新しい信仰集団」をつくるようにということであろう。
 28,30「この後、イエスはすでにすべてのことが実現されたことを知つて、言われた、それは聖書の言葉が完全に成就するためであった『私は渇く』(詩22:15)。イエスは酸つばい葡萄酒を受けると(詩69:21)、『すべては成就した』と言われて、首をたれて霊を渡された」。
 ここはイエスの死を描いたものであるが、少し難解である。他の福音書と決定的に内容イエスの死の「解釈」が違うからである。イエスの最後の言葉「すべてが終った」協会訳をどう訳すか、が眼目である。                                          例えば、マタイ、マルコの線では、イエスの最後の言葉は「わが神、わが神、あなたはどおして私をお見捨てになったのですか」とある(マタイ27:45)。すなわち、マタイでは、イエスは死に臨んで、父がどおして愛する子を見捨てるかわからない、といって、そういってよければ、絶望して息たえる。イエスの死においては、神の御子の死の意味は解明されないままであって、その解明はイエスの復活まで待たされる。それゆえイエスの死はいわばイエスの活動の挫折であり、瀆神者との汚名もそそがれないままである。イエスの死はゴールに到達していないのである。
 ところが、ここでは、全く別の死の光景が展開している。イエスはお知りになった「すべてのことが実現された」ことを。「実現された・テレオー」は、28、30節で3回出てくるキーワードである。28節前半の「すべてが実現した」は完了形の受け身で「実現された・完成された・成就された」の意味。後半の「聖書の言葉が《成就する》ため」も同じ用語。イエスが「知る」は、これまで特に13:1、時の到来、18:4、捕縛など、イエスのもつ神的力、神通力を示したが、ここでも同じ。「すべてこと」は、13:1から始まる時「イエスはこの世から父のところに移っていく時が来たことを知つて、この世で愛された弟子たちを最後の瞬間(テロス)まで、愛しぬかれた」との関連がある。広くとれば、神の御心によってすべてのことが実現する、イエスがこの世で託された課題、・父の御心の啓示、愛の行為、が全うされたことを言っている、これがが「すべてのことの実現」の意味である。「私は渇く」は、単なる肉体的渇きでなく、父の御心を最後まで成し遂げようとされるイエスの熱い気持ち、切望の表現のようにみえる。
 30節「すべてのことが実現した」には、17:4「私は私にさせようと与えられました仕事を成し遂げて(テレイオー)地上にあなたの栄光を現しました」の響きがある。だから訳として「すべてが終った」はよくない、イエスの生涯の「終り」の意味合いが出てくるから。イエスの地上の業の完成、完遂の意味を強く出すために「実現した・完成した・成就した」との訳がよい。この成就にはイエスの業の完成が意味されている点は、受難物語全体で展開されていた、捕縛時の積極性、ピラトの審問における弁明の展開、十字架をみずから担ぐ、など。のみならず、この完成には神の業の完成をみるべきである。10:18「誰であれ私から生命を奪うことはできない。むしろ私が自ら生命を捨てるのである」は、イエスの業であると同時に、イエスを十字架の死に追いやるのは、ユダヤ人であり、法的執行はピラトであると同時に、そこに神の「力・エクーシア」が働いている、11節「上から与えられるのないならば、私に対して何の力もない」。ヨハネにおけるイエスの死は「神に見捨てられる」ものではない。8:29「父は私を決して見捨てられない。私がいつも父の御心にかなうことをなすからである」。「すべてが成就した」は受け身形であるから、成就されたのは神である。
 13:1にあったように、イエスの死は父のもとに移る、御子の勝利の凱旋である。すべてが成就した、についてヘンヘンは「イエスが世にいるご自分に属す者たちを愛し、最後まで愛しとおされた」と解釈する。この解釈もよい。しかし、テーマはもっと大きいと思う。すべての完成、イエスの死、とは、地上に存在しないイエスと弟子、信仰者との別の交わりの完成を意味する、14:23、16:22。イエスの復活においてではなく、イエスの死において新しい時が開始するのである。
 16:20後半、22「あなたがたは悲しいだろう。しかしあなたがたの悲しみは喜びに変えられるだろう。そのようにあなたがたも今は悲しみがある。しかし私はもう一度あなたがたに会うだろう。その時にはあなたがたの心は喜ぶだろう」。