建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

弟子たちへの顕現

週報なしー41

弟子たちへの顕現

テキスト:ヨハネ20:17~ 

 20:17後半~18「『私の兄弟たちのもとに行って、言いなさい 私は、私の父にしてあなたがたの父、私の神にしてあなたがたの神のもとに上っていく』。マグダラのマリアは行って、弟子たちに《宣教した》『私は主に会いました』」。
 復活のイエスの言葉で注目すべきである。マタイ28:10でも復活のイエスはマリアらに「私の兄弟たちに告げなさい(宣教しなさい)」と、イエス捕縛の時点で逃亡した弟子たち(マタイ26:56)を、復活のイエスの側では「私の兄弟」と呼び掛けられた。この「兄弟」をイエスの肉親の兄弟とみなす解釈があるが(ドットなど)少し無理である。これは弟子たちを「父との新しい、特別の関わり」を設立するものである。イエスが父のもとに上っていくことによって「イエスの父は弟子たちの父」となる(ブルトマン)。

 

 18節のマリアが弟子たちに「伝えた・報告した」協会訳・塚本訳は、少し問題。ここの「伝える・アパンゲロー(マタイ)アンゲロー(ヨハネ)」は「伝える」の他に「宣教する」という意味がある(マタイ28:10でも)。復活のイエスに最初に出会ったのがマグダラのマリア(ら)であるという前提に立てば(マタイ、マルコ、ヨハネ)、「私は主に会いました」との復活のイエスについての証言は原始教会では決定的使信であるわけである。したがってその使信の伝達は単純に「伝える」という言葉では表現できない内容である。ここは「宣教する」との訳がよい(シュナッケンブルク)。マグダラのマリアは決してべテロら十二弟子の下に従属するわけではない。「マグダラのマリアは空虚な墓を発見したばかりでなく、復活顕現を最初に受けている。したがって二重の意味で彼女は使徒中の使徒である。…彼女は復活のまず第一の使徒的証人である。マタイ、ヨハネ、マルコ(追加部分)は使徒的証人の首位がマグダラのマリアであることを保証している」(フィオレンツア「彼女を記念して」)。
 19節以下~23「さて週の最初の日の夕方、弟子たちがいたところのドアが、ユダヤ人を恐れるあまり閉められていた時、イエスがやって来られて、真ん中に進み出て言われた『ごきげんよう』。こう言われた後、イエスはご自分の手と脇を彼らに示された。弟子たちは主に出会って喜んだ。イエスは再び彼らに言われた『ごきげんよう。父が私を派遣されたように、私もあなたがたを派遣する』。こう言った後、イエスは彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。あなたがたの免除する人々の罪は免除され、あなたがたが免除しない人々の罪は、免除されない』」。
 イエスの捕縛の時点で「姿を消した弟子たち」のその後の行動については、他の福音書は全く記していない。イエスの十字架、死、埋葬に彼らは立ち合ってはいなかった。多くの人は、弟子たちはただちに故郷のガリラヤに逃げ帰ったのだと「見てきたような」解釈をした。しかし、イエスの死後の弟子たちの運命、行動は目まぐるしく変化したことは確かだ。弟子たちがガリヤラで復活のイエスに出会ったことは確かであるが(マタイ28章ヨハネ21章)、それがいつの時点であるか明らかでない。もう一つ確かなのは、最初の教会(原始教会という)がガリラヤでなく、エルサレムに生れたことである。ガリラヤでの復活のイエスとの出会いとエルサレムでの教会の成立の間には「大きな空白期間」がある。この空白期間を埋める一つが、この箇所の「弟子たちがいたところのドアがユダヤ人を恐れるあまり閉められていた時」である。弟子たちは、イエス捕縛後ガリラヤには逃亡することなく三日間依然としてエルサレムに留まっていた。この点をカンペンハウゼンの「空虚な墓」は強調した。弟子たちの状況、心理的状態も手に取るようにわかる。「ユダヤ人を恐れる」「ドアが閉められていた」すなわち、恐れと悲しみ(シュナッケンブルク)不安の中で彼らは身を隠していたのである。彼らは落胆しおそらく笑うことはあるまいイエスに関して重大なこと、死は起こったがまだ決定的な裁定をくだせないで、次の行動を検討しあっていたものと思われる。
 マグダラのマリアによる空虚な墓の発見はこのような状況で告げられた。ペテロと愛弟子とは墓を確認した。マリアによるイエスの復活の使信は、いまだ弟子たちを奮い立たせていない。弟子たちの精神的状況を変化させたのは、マリアの使信ではなく、イエスの復活顕現であった。この点をヨハネ伝は強調する。
 19節後半「イエスがやって来られて真ん中に進み出て言われた『ごきげんよう』」。イエスの出現は「閉められたドア」からのものであるから「忽然とした、非身体的な幽霊のような出現」である。ところが、続く20節前半の言葉「手と脇とを示された」は、二つの方向性がある。一つは復活のイエスの「身体性」を示している。もう一つはもっと重要で、復活者の同定方法である。体全体ではなく「手と脇」というのは19:34「一人の兵卒が槍でイエスの脇腹を突いた」をふまえたもので、手は十字架に釘を打ち込まれた(縄で縛られた、釘ずけは後の時期かららしい、ベネット)傷痕が脇にも槍の傷跡があった。イエスが示された「手と脇」はいずれもその傷跡を提示なされたもの。弟子たちはその傷跡をとおして「主を見て」すなわち「復活のイエスを地上のイエスと同じかたと同定したのだ」(シュナッケンブルク)。ルカの場合には、最後の晩餐においてイエスがパンを裂いて配る姿をとおして弟子たちはその人をイエスと同定した「その人がパンを裂いて渡されると、二人の目が開けてその方とはっきりわかった」ルカ24:30以下。ヨハネにおてはこの同定はもっと明らかと言うべきかもしれない。
 20節後半「弟子たちは主を見た。そして喜んだ」。復活のイエスとの出会いは「主を見る」とある。マリアの場合も「私は主を見ました」18八節。ルカ伝が強調するべテロへの復活のイエスの顕現は「主は復活してべテロにご自分を現された、見られた、目撃された」ルカ24:34とある。パウロにおいても復活のイエスは「目撃された」である。第ーコリント15章。
 弟子たちは「喜んだ」は、この出会いが彼らの精神的状況を全く変えたことを言っている。マタイ28:8でもマリアらは「恐ろしいがまた大喜びで」、ルカ24:41「喜びのあまり彼らがまだ信じかれず」。この「喜び」のポイントは16:20「あなたがたは悲しむが、その悲しみはやがて喜びに変えられるであろう」がこの出会いで成就したといえる。
 21節は、復活のイエスとの出会いの頂点をなしている。第一に「ごきげんよう」である。直訳では「あなたがたに平安あれ」(マタイ28章でも)すなわち「平安の授与」である。これも告別説教の中で14:27七以下「私の与える平安はこの世の人のいうような言葉だけのもの(平安あれとの挨拶)ではない」。真の平安は霊的賜物であるばかりでなく、外に向って作用するもの、人間、民族の間の平和を創り出すものである。
 第二に「父が私を派遣なさったように、私もあなたがたを派遣する」。信仰的にみてイエスの復活の出来事の中で最も大きな出来事は、ここにある弟子たちの派遣である。時間的空間的にこれは将来と全世界とに向う、一大事件である。弟子たちは、この復活のイエスの命令によって、先の喜びの体験から歴史的な活発な活動へと導かれた。注目すべきことに、この弟子たちの派遣は、マタイ、ルカ、ヨハネと「すべての復活の記事」にしるされている。「行って、すべての国の人を弟子(キリスト者)とせよ」マタイ28:18。
「罪を赦される悔改がその名においてすべての国の人に説かれる。あなたがたはこの証人である」ルカ24:47。イエスの復活のテーマは、死人の復活があるかどうかといったいわゆる奇跡の問題に極小化してはならないのであって、あくまで福音書が述べている、このような教会史における決定的な転回点、それなしには、弟子たちの再生、派遣も教会の成立も存在しないような転回点として理解されなければならない。復活のイエスの顕現がもしなかったとしたら、この弟子の派遣も、教会の成立もなかったであろう。したがってイエスの復活を信仰者の「心の中への復活」に閉じこめ限定づける解釈もおかしい。ルカ24:32「道々私たちに話をされたり聖書を説き明かされ時、胸の中が熱くなったではないか」にしても、「心の中への復活」を言ったものではない。イエスの復活は「私たちの外・エクストラ・ノス」から私たちに到来し突きあたり、出会う現実であるから、私たちの「心」の出来事と解釈するのは、正しくない。
 第三に、この派遣には全権の授与を伴っていた「あなたがたが免除する人々の罪は免除され、あなたがたが免除しない人々の罪は免除されない」。イエスが他の預言者と違っていたのは、自ら罪を赦した点であった「あなたの罪は赦された」マルコ2:5。イエスの全権要求というのがある「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私を遺わされた方を受け入れるのである」ヨハネ13:20、マタイ10:40。イエスを受け入れる者は、神を受け入れる、これがイエスの全権要求と呼ばれるものである。イエスの罪を赦す「権限」は今や、弟子たちに与えられる(マタイ16:19)。イエス復活の後においては、イエスが地上でなされた活動、罪の赦し、癒し奇跡説教を「引継ぎ、代理する」のは弟子集団、使徒たち、教会の存在(弟子は教会全体を指す)である。これが弟子たちの派遺のテーマである。「イエスの福音」は今や「イエスについての福音」へと質的転換をとげたのである。
 第四に、聖霊の授与である「聖霊を受けなさい」22節。「息を吹きかける」との行為は次の「聖霊を受けよ」で説明されている。息を吹きかけるは、旧約では、神による生命の授与と関連する、創世記2:7、エゼキエル37:9。ここでは「復活の生命に与ることを意味する」(シュナッケンブルク)。個人としてではなく、教会全体が復活の生命に与ることを意味するが、特にこの聖霊の授与は、22節後半との関連では、弟子たちによる「罪の赦し」全権委任と結びつく。しかし、イエスの復活に対する不信、疑念は弟子たち、教会の中で根強く存在していた。異邦人教会においてもそうであった第一コリント15:12。ヨハネ伝もトマスのテーマとしてそれを展開している。