建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ヤハウェを思い出せ

2003-6

ヤハウェを思い出せ

テキスト:申命記8:17~18

 「あなたは心の中で、私自身の力と私の手の強さが私にこの財産を作り出したと、あるいは考えるかもしれない。その場合には、あなたの神、ヤハウェを思い出しなさい。なぜなら、あなたの祖先に誓われた契約を守るために、あなたに財産を作り出す力を与えて、今日のようにして下さったのは、ヤハウェだからである」。

 

 この箇所は以前[キリスト者の希望]で引用した。神により 「カナンの土地取得」の約束を受けていたイスラエルの民の、その約束が実現した。「あなたは食べて飽き足り、美しい家々を建て、あなたの牛と羊が増え、あなたの持ち物すべてが増える時、その時あなたの心は高ぶり、その時あなたは、あなたの神ヤハウェを忘れる」8:12~14。このような民の高慢さとヤハウェの忘却。ここではこれがふまえられている。その高慢さは、17節では「自分の力と自分の手の力が財産をつくったと思う」と表現されている。民のこのような高慢な考えに対して、申命記は述べる、民に財産を作り出す力を与えたのはヤハウェであって、民自身ではなかったと、18節。「あなたに財産を作り出す力を与えたのはヤハウェである」。宗教など度外視した通常の人間の考えを、申命記は「高慢」「ヤハウェの忘却」と批判する。移住し、定住した地での、人間の生産活動、食料の獲得、家の建築、家畜の増加、通常の人間のいとなみ、そこに申命記は神による救済の業、彼らの祖先との「契約をお守りになるヤハウェ」の働きを指摘している。
 「ヤハウェを思い出せ」はこの箇所のキーワードである。ヤハウェを想起することは(14節「ヤハウェを忘れない」こと)民の歴史・救済史的な回顧を伴っている。出エジプト、14節、荒野の放浪における導き、15節、マナの奇跡、16節。これらはヤハウェの恵みの業の想起でもある。忘れるとは、単純に忘れるだけでなく、土地の神々「他の神々の後に従い、これに仕えこれを拝む」(19節)ことが含まれている。しかも19節後半では、民が他の神々に仕えるならば「あなたがたは必ず減びるであろう」とある。
 イスラエルの歴史をみると、南王国ユダはバビロニアに減ぼされた。申命記はこの滅亡の原因を「民がヤハウェの声に聞き従わなかったからだ」とみる、20節。19節の「あなたは滅びるであろう」は未来形であるが、イスラエルの民がバビロン捕囚の中にある時点では、民がヤハウェの声に従わなかったから、この捕囚にあったと民は総括したのだ。
 この「ヤハウェを思い出せ」においては、日常生活の中でヤハウェの恵みの業に感謝することを言っている。その業は「あなたに財産を作る力を与える」という人間の側の自力とも解釈できるものであるが、人間がそのいとなみをする、できること自体がヤハウェが与えられたものだ。だとすれば、人間のなす祭儀や礼拝のいとなみも神の恵みと考えることができる。関根正雄氏が、礼拝できることが恵みである、と注解した点が印象的であった。教会堂もないが礼拝活動を続けていけることが神の恵みだ、と氏は述べられた。
 私たちのささやかな礼拝活動について私は考えた。会堂もない、集まる者もこれだけ、だがすでにまる六年になる。この活動が人間的な考えに終始したものであれば、三年でつぶれるとかって私は考えていたのであるが。使徒行伝5:33以下にある、ペテロら使徒たちの伝道に対するユダヤ教のガマリエルの演説の言葉が想起される、「もしあの企てやすることが人間の考えから出たものならば滅びるであろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない」(38~39節)。私たちの礼拝活動は「人間の考えから出たもの」であるが、同時に「神から出たもの」と信じて疑わない。