建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

妬む神

週報なしー49

タイトル:妬む神

テキスト:申命記6:14,15

 パンフ「宗教者の戦争責任」において力を入れて書いた一つが「戦争責任としての神社問題」すなわち国家神道のもとでのキリスト者の「神社参拝、天皇崇拝」の問題であった(二章一、四)。キリスト者による神社参拝、真影拝礼、皇居遥拝は、同時に明治政府以来の「神社は宗教にあらず」論、神社参拝は愛国心の表明(文部省)などによって「非宗教的なもの」とみなした政府の宗教政策への「応答、屈伏」としてなされた。 明治初年においてはカトリックプロテスタント両派に存在した「偶像礼拝の禁止の戒め」は、生き生きと働いていたが、内村鑑三教育勅語不敬事件およびその翌年の東京帝大の井上哲次郎の「教育と宗教の衝突」をとおして根底から掘り崩されていったようだ。
 さて、偶像礼拝と関連して、一五年戦争の時期キリスト者が神社参拝、天皇崇拝を≪受け入れた信仰的形態≫について考えたい。このパターンとしては、二つが考えられる。
 一つは国家の「神社は宗教ではない」(これが国家神道の本質構造)との見解・宗教政策を受け入れそれに屈伏して、神社参拝とキリスト教の神礼拝を「併存」させる形態。松原栄一の立場など。この併存は≪ある種のシンクレチズム・宗教混淆であるが、この宗教混淆で重要となるのが偶像礼拝禁止の戒め≫である。
 旧約聖書においては、荒野の放浪の時期、シナイ山で神から授けられたいわゆるモーセ十戒は、イスラエルヨルダン川を渡り、カナンの地に侵入した後にそこの土着宗教と接触し、その影響下で、ヤハウェ信仰がカナン宗教と宗教混淆を起こした状況で、重大な局面を迎えた。このシンクレテイズムの中で「偶像礼拝の禁止の戒め・第一戒」は、ヤハウェ信仰の存立を危うくする宗教的風土との果敢な戦闘の宣告を意味した。
 注目すべきことに、偶像礼拝の禁止の箇所、モーセの十成の第一の戒め(出エジ20:5、34:14)申命6:14以下「あなたがたは他の神々、すなわち周囲の民の神々に従ってはならない」には必ずその禁止理由に「あなたのうちにおられるあなたの神、主は嫉む神であるから」とある。これについて、旧約学者ラードはこの「嫉む神」が二つのことを意味しているという。一つは神ヤハウェは、イスラエルに向かうということ(ホセア11:2など)、もう一つは、イスラエルがもし≪分裂した心≫(ヤコブ4:8「二心の者どもよ、心を清くせよ」)をもってヤハエウに自らを委ねる場合には、威嚇となるということ。申命6:15。ホセア5:6「彼ら・偶像崇拝をしたイスラエルは羊と牛を携えて主を拝みにいく。しかし主を見出さない。主は彼らを離れ去られた」。偶像礼拝する者がヤハウェの神を礼拝しても恵みの体験が得られない、というのが神の怒りとして述べられている。嫉むとはその人が他の異性、「周囲の民の神々」他の神々に心を向ける、浮気をする時には怒る、嫉妬するということである。これは、イスラエルがカナンに入った以後カナン宗教とのシンクレチズム・宗教混淆に脅かされた状況で起きた問題であった。偶像礼拝の禁止はローマ時代においても他の宗教と共存する状況、特に皇帝礼拝の強要のもとで(省略)生きた戒めとなりえたが、日本の教会においては、日本の宗教状況、他の有力宗教の存在、明治以来の国家神道の問題をふまえてこの戒め、偶像礼拝の禁止はひときわ重要であった。しかし現実には、日本のキリスト者には十分血肉化していなかった。
 神社参拝の間題のもう一つは「証し」ということ、すなわち自分がなす発言、行動においてキリスト教信仰を他者に証言するということ。安藤肇先生に誉めすぎの書評を書いていただいて私は感謝している。                                          心と体の分裂。戦時下のキリスト者の「皇居遥拝」について「あの時誰一人として天皇を拝んでいたキリスト者はいない。体は、動作は皇居遥拝しつつ≪心では実はキリストを拝んでいた≫」という話を私は二〇代に教会で聞いた。文書ではまだ読んだことはない。その時「心でキリストを拝み、体で皇居遥拝をするのは自己分裂だ、他者にはそのキリスト者の行動はどのように見えるのか」と感じて、それを二年前宗教と平和誌に書いたことがある。信教の自由を心理的、心の問題に矮小化させること(1929年、勝田文相の見解、信教の自由は心理的なものであるから、外形的な神社参拝を拒否する自由はないというもの)したがって信教の自由を内村・勅語不敬事件におけるように天皇への拝礼や神社参拝の拒否のように、エートス(習慣化した思想と行動)の問題としてとらえ「ない」ことは重大問題である。これは当時すでに文部省と宗教界の対決点であった。
 今回の書評で安藤先生は曽野綾子氏の文を引用された 「文部省や軍部がなんと指導しようと、それは天皇が私たち(カトリック)の神になったわけではなかった。≪外面はどんな風習を受け入れようとも≫、私たちは≪心を売ることはしなかった≫」。曽野綾子氏はここでキリスト者の行動における「外面・風習」と「心」との「分離論」(勝田文相と同じ)をたてた。
 まず「外面ではどんな風習に従おうとも」すなわち神社参拝、皇居遥拝、真影拝礼、天皇崇拝をキリスト者が行なうことに痛痒を感じないような書き方を曽野氏はした。曽野氏は意図的にこれを具体的には書いていないし、まして偶像礼拝という問題意識をなきもののように言及しない。偶像礼拝という視点に立てば「神社は宗教である」(小野村林蔵やホーリネスの中田重治、美濃ミッションの宣教師ワイドナ一女史、朝鮮の宣教師マッキューン、朝鮮の長老教会ら)。曽野氏の「外面でどんな風習にしたがわおうと」は立派な偶像礼拝である、少なくともそう「見える」。曽野氏のいうところの「風習、風俗」というのは当時の文部省の見解「神社は宗教にあらず」「神社参拝は愛国心の表明」という国家側の宗教政策の言い換えであって「宗教学的には宗教である神社」を宗教でないとこじっけたもの、国家神道の論理を受け入れたもの、当局の宗教迫害、弾圧の論理である。それを受け売り的に「風俗」と表現するのは迎合、屈伏である。
 当時日本のカトリック大司教も、ヴァチカンも神社参拝を公的に認めたが、これについても曽野氏は言及しないで「弾圧された」と被害者性を打ち出した。これとはちがってこの四月に日本のカトリックのうちの「正義と平和協議会」が戦争反省文書でこの点を反省している(宗教と平和、五月号、風光計)。また朝鮮のみならず、戦時下の日本のキリスト者においても神社参拝拒否事件があったし、弾圧されたキリスト者があった、燈台社、美濃ミッション、耶蘇キリストの新約の教会、プレマス・ブレズレン、大きなところではホーリネスなど。この問題は歴史的には曽野氏がワン・フレイズで「外面でどんな風習に従おうと」とかたずけるほど簡単なものではなかったのだ。
 自分の意図と第三者の眼差しの分裂。曽野氏に限らず神社参拝しようが、皇居遥拝しようが「私たちは心を売ることはなかった」との立場を取るキリスト者の立場について。これは先にふれた心と体の自己分裂とは別の自己分裂、≪自分の内面の意図と第三者がその人の行為を外から見た場合の分裂≫である。今日のポイントはこれである。つまり私と神社という宗教施設、天皇の存在、皇居という天皇の在所との関わりいうという点ばかりでなく、私の神社参拝におけるお辞儀(それが敬礼であれ礼拝であれ)が、自分の意図ばかりかそこに居合わせそれを目で見る≪第三者、他者に私の神社へのお辞儀がどう映るか≫の問題がある。お辞儀という私の行為を評価するのはお辞儀をする私の行為主体の意図ばかりでなく、第三者にこのお辞儀が何をしているように≪見えるか≫である。行動には私の意図(お辞儀をするという)と第三者の目に「あの人は神社に参拝している、していない」とが「統一さてれて」いなければ「行動、行為」とはいえないのである。神社参拝、真影拝礼をした当時のキリスト者が「心を売ることはなかった」と主張する以上≪心を売っていないことを証明する発言・行動が存在しなければならないわけである≫。体では参拝、拝礼していながら≪心ではそうしていない≫との行動の意図とその行動の外観の分裂に対しては第三者は納得しない。第三者に納得させ、証明するのが信仰者の「証し」という見解である。だからこそ≪神社参拝を拒否し、天皇崇拝しない少数のキリスト者≫は、それをしないという本人の意図と第三者と官憲の眼差しの一致によって弾圧されたのだ。パンフで引用したボンヘツフアーは、皇帝礼拝(神社参拝、天皇崇拝)への参加の基準を「ほかの神々を礼拝することが問題になりはしないか」「キリストを否認する外観を呈する事態が惹き起こされないか」を目安としている。この目安は正しい。第三者の眼差し「キリストを否認する外観(ドイツ語でAnshein)」に着目したからだ。曽野氏の論は当時「神社参拝がキリスト教の中心に挑戦し信仰の原点にいどむ悪魔の力をもつ」との殉教者朱基徹牧師の認識、先の少数の弾圧されたキリスト者が存在したことに対して到底反論できない。
  「第三者の眼差し」に着目したもう一つの例は、律法学者エレアザルの殉教である。マカベア戦争の時期(前160年頃)、シリア王のアンチオコス・エピフアネス四世のユダヤ人追害があった。シリア軍に占領されたエルサレム神殿には侵略したシリア人によってギリシャの神々が祭られ、律法を守る者はつかまって殺され、ディオニソスの祭りへの参加を強要され、ギリシャの習慣に従わない者は容赦なく殺された。
 折しも高齢で立派な容貌の律法学者エリアザルも、無理矢理≪豚肉を食べることを強制された≫(マカベア記二 6:18以下)。 しかしェレアザルは「祭儀的に汚れた」豚肉を食べて生命を永らえるよりは死を受け入れることをいさぎよしとした。ところが豚肉を食べさせる役の人はエレアザルの旧知の人であったので、その人はシリア王のくだす豚肉と清い肉(羊などの肉)と密かに入れ替えて、清いほうの肉を実際は食べて汚れた肉を食べたことにする、そうすれば生命は助けると提案した。これに対してエレアザルは拒否して言った「我々の年になって嘘をつくのはふさわしいことではない。そんなことをすれば、大勢の若者がエレアザルは九〇才にもなって≪異教の風習に転向した≫のかと思うだろう。そのうえ、彼らは私の欺きによって迷ってしまうだろう。また私の老年に泥をぬり汚すことになる。いま男らしく生を断念して、若者たちに聖なる律法のために進んで高貴な死に方ができるようにしよう」と言って、拷問を甘んじて受けて死んだ。
 エレアザルは汚れた藤肉でなく清い羊の肉を食べること「偽装」が「同じユダヤ人にどのように映るか」を問題にし、自分の生命を永らえることよりも、自分のあざむきの行動がユダヤ人をつまづかせることを恐れ、むしろ「律法のために死ぬこと」を身をもって示した。
 曽野氏のような見解は、朝鮮のキリスト者がなした神社参拝に対する懺悔の表現「転向」「背教」「罪」を決して又け入れない、キリスト者の戦争責任を懺悔したり告白しない点である。自分たちが神に背いた、罪を犯したという「罪責の意識が存在しない」からである。
 このあたり、神社間題、二章の一、を原稿化している時、私は憂欝になり気持ちが落ち込んだ。松田先生はこのあたりを「キリスト教の頽落と敗残の姿」と表現された。この気持ちをもりたて明るくしてくれた、やる気を起こさせてくれたのが、少数の抵抗するキリスト者の姿、行動であった。「バール・偶像に膝をかがめない七千人」(列王上19章)である。特に無教会の浅見仙作の抵抗の記録「小十字架」は感動した。             .
 偶像礼拝する王や妃イゼベルに迫害されて生命を狙われた預言者エリアが砂漠に逃れて絶望し、イスラエルには神ヤハウェを拝む人が絶えたと訴えた時の神の言葉、バールに膝をかがめない七千人を神は残すとの言葉にエリアが希望を見出したように、少数のキリスト者の、偶像崇拝、神社参拝、天皇崇拝に抵抗した姿と行動に、現在のキリスト者の希望があると感じた。彼らは「分裂した心」でなく、体は皇居にむかってお辞儀をし心は神を拝んだ、他者には神社参拝に見えたが、心では神を拝んだといった「分裂したありさま」においてなく、全存在をもって神を拝んだからだ。