建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

教会の土台  工ペソ2:20

1996-1

1996/4/21
教会の土台  工ペソ2:20

 教会がどのようにしてできたかについては、いくつかの見解が聖書にしるされている。
 (1)教会の土台  工ペソ2:20以下
 「あなたがたは使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリストが隅のかしら石である」
 ここではキリスト者の共同体・教会は神の家、建物にたとえられている。「主にある聖なる宮」「霊なる神の住まい」(エペソ2:21)「人は神の家、すなわち生ける神の教会でどのように歩むべきか…」(第一テモテ3:15)「主のもとにきて、あなたがたも生ける石となって霊の家に築きあげられる」(第一ペテロ2:5)など。ここの2:20のポイントは「土台と隅のかしら石」、すなわち使徒たちとキリストとの関連である。隅のかしら石は、家全体を支える、土台の土台、そのかしら石を取ると土台も揺らいでしまう石のこと。イザヤ28:16「見よ、私はシオンに一つの石、試みをへた石、かたくすえられた尊い隅の石をすえる」。この謎に満ちた「隅のかしら石」をユダヤ教はメシアと解釈し、キリスト教はキリストと解釈した。第一ペテロ2:4以下「主は人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。あなたがたもそれぞれ生ける石となって霊の石に築きあげられ…」。
 これに対して「使徒たちと預言者たち」は宣教という職務の担い手として、教会・建物の土台一般である。「使徒たちと預言者たち」(「預言者」は旧約のではなく、新約聖書におけるもの)は「キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに奥義が啓示されている」(エペソ3:5)特別の集団である。土台は使徒的な「伝統・教え」(コンシェルマン)が考えられているが、この「伝統・教え」は決してカトリックの意味での「教皇における使徒の職務の継承」を意味しない むしろ使徒的な証言、新約聖書文書の教えを意味している。そして、教会の土台となるこの宣教の職務は、かしら石(親石)であるキリストについて証言し、またキリストに従属している。キリストが支配しているがぎりにおいて、宣教の務めは教会の活動となる。
 したがって、現在のキリスト者からみると、教会は使徒的な証言、新約聖書という土台ばかりでなく、土台の土台であるかしら石、キリストによって基礎づけられる。それゆえキリストの支配のもとにある。教会のメンバーは「霊において神の住まいとなるように、主にあって共に建てられた」存在である(工ペソ2:22)。
 プロテスタントの牧師一般はあくまでもこの二つの基礎をふまえなければならない。そうでなくて、これらの土台の代わりに、自分の考えや特殊な信仰理解をすえて、他の理解を排除するならば、「使徒的である」こと、土台一般である「使徒たちと預言者たちの教え」をないがしろにするばかりでなく、土台の土台であるキリストをも押しのけて、自らが隅のかしら石にとって変わることとなる。そのような試みは「霊の家」(第一ペテロ2:5)であることをやめることになり、教会の分裂の原因となる。
 言い換えると、かしら石なるキリスト、土台である使徒と預言者の「教え」、教会はこの土台によって立つかどうかを検証され「批判にさられる」。新興宗教の教団で起こりやすいことであるが、聖典や教典から離れ、逸脱して教祖の教えや見解が絶対化される、すなわちて、ここでいう「教会の土台」聖書の教え、とかけ離れる場合(キリスト教ではカトリック教皇の存在、「無教会」のように)、この教会の土台、使徒たちの教えは、それらの絶対化に対する鋭い批判の作用をする。
 (2)土台なるキリスト  第一コリント3:10~11 
 「私に授けられた神の恵みに従って、私は賢い建築家のように土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てている。しかしその上にどのように建てるかは、各人が見守ってほしい。というのは誰にせよ、すでにすえられた土台、すなわちイエス・キリストとは別の土台をすえることはできないからである」。
 ここでは教会という建物の「土台と建築家」、キリストと使徒職のテーマが取り上げられている。
 第一に、「神の恵みにしたがって」はパウロ使徒職の権威を言っているが、使徒の宣教活動を「神の恵みに従うもの」という。
 第二に、10節の教会に「土台をすえる」というは、パウロ使徒として十字架の福音(2:2)を説いたこと。同3:6では「私は植え、アポロは水を注いだ」とある。パウロ使徒は「賢い建築家のように」と比喩的な表現を用いているが、使徒と建築家とは決定的に違っているのは、建築家にはその建物に「どのような土台」をすえるかの選択はまかされているが、使徒には「選択の自由がない」ことである。唯一の土台、キリスト以外のものをすえることは誰にせよできない、使徒にもできないのである(11節)。ここでの「キリストという土台」はすでに神をとおして「キリストにおいて起きた出来事」と考えられる(ヴェントラント)。エペソ5:25には「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身を(死へと)引き渡されたように」とある。教会は、キリストの十字架、ご自身を死へと引き渡す十字架の愛という土台の上にあるといえる。キリストの出来事は、一貫してキリストの「十字架の死に至るまでの従順」ピリピ2:8、弟子たちへの奉仕(ヨハネ13章、洗足)、死への自己放棄(エペソ5:25)、ロマ4:25「主は私たちの罪過のために死に渡された」が貫かれていて、支配の強要は排除されている、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の生命を《引き渡す》ためである」(マルコ10:45)。
 (3)主なるキリストの宣教
 同じ見解をパウロは第二コリント4:5で述べている。
 「しかし私たちは自分たち自身をでなく、むしろ《主なるキリスト・イエス》を宣教する。しかも私たち自身はイエスのためのあなたがたの僕(奴隷)である」。
 ここでは使徒職がキリストおよび教会とどう関わるかが取り上げられる。パウロはここで11章の「偽使徒」と対決して論じている。彼らは「異なったイエス、異なった霊、異なった福音」を宣教する「大使徒」である、11:4以下。彼ら偽使徒は教会を自分のもとに従わせ「奴隷にし、いばり」(11:20)、自分を誇り(3:1、11:21)、「自分自身を宣教する」(4:5)。使徒職はそもそもパウロによれば、自分自身にではなく、キリストに由来する(ガラテヤ1:1)。パウロの福音における眼目はイエスが主であることにある。特に「イエスのゆえに・ために」との表現では、十字架へとご自身をささげられ、引き渡しなさったイエス(ガラテヤ2:20、エペソ5:25)を指し示している(クリスチァン・ヴォルフ)。パウロは自分の使徒職をイエスのこの自己放棄的服従に対応した《自己放棄的な業》と考えている。キリスト・イエスの奴隷(ロマ1:1)たることが、パウロを「教会の奴隷、僕」にしている。「キリストの奴隷」であることが使徒を「教会の奴隷」とするのである。教会の僕とはならないで、教会を支配しようとする偽使徒はその点において、主イエスの奴隷、僕であることをやめている。それは主イエスを宣教しないで、自分を宣教することで明らかとなる。使徒は「主なる」キリストを宣教し、また自分たちがキリストの僕、奴隷であることをも知つている。使徒職は、自らを誇ることではなく(第一コリ3:21、「主を誇れ」第二コリ10:17)、キリストに完全に屈伏することによってのみ達成される。使徒職が「教会の僕」ということは、自らを教会の「主人」ではないということである。「主なる」キリストを宣教するということは、使徒たちは教会に所属するが《教会は使徒たちには所属せずに、むしろキリストに所属する》という意味である(ヴェントラント)。使徒職への召し、使徒である恵みは、教会への奉仕者であることへの召し、恵みである。
 プロテスタントの牧師の活動もこのような聖書の視点から理解されるべきである。