建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

「教会を信じる」  マタイ18:20

1996-2

1996/4/28

「教会を信じる」  マタイ18:20 

 「使徒信条」(後4世紀)は「われは《一つの、聖なる、公同の教会》を信ず」といっている。 これらの三つの表現で真の教会が示されている。日本語に翻訳された使徒信条では、「一つの」の部分が欠落している。またコンスタンティノポリス信条(381年)にはこの三つの他に「使徒的な」が加えられたという(モルトマン)。
 神学者カール・バルトは「教義学要綱」(1947)でこの箇所について述べている。使徒信条は「われは聖霊を信ず」(credo in Spiritum Sanctum)とはいうが「われは教会を信ず」はcredo ecclesianとあって、教会が信仰の対象になっていないという。むしろ「私は私が聖霊を信じることにもとづいて、《教会の現存》を信じるのである」。すなわち「教会は信仰の対象ではない。私たちは教会を対象として信じるのではない。ただ私たちはこの教団(個別の信仰共同体)において聖霊のみ業が出来事となることを信じるのである」。教会の人間的な要素がそのまま信仰の対象とはなりえない。教会の現存、すなわち教会のかしらなるキリストが現存する教会を支配し、現存する教会に聖霊の働きがあることを信じるという意味になる。したがって「教会が現存することを信じる」は明らかに単なる人間の集合体としての「教会自体を信じる」こととは区別される。
 「教会を徹頭徹尾聖霊のみ業に基礎づけることなしに、教会について語りうると考えるのはあやまりである。…したがって人間的な集会や結社についての一切の観念も排除しなければならない。キリスト教の教団(ゲマインデ、個別の信仰共同体)は自然に成立し存続するものではなく、人間の歴史的決断によって成立、存続するものでもない。むしろそれは神の《召集》として成立し存続する。聖霊のみ業によって、召し集められた者たちはその王(キリスト)の応召兵として集まる。…教会は人間の手によってはつくられえないのである」(バルト)。ボンヘツファーの解釈は後述。
 続けてバルトはこう語る「私たちが《教会の現存を信じる》とは、私たちがこれら一つの教団(個別の教会)をキリストの教団として信じる、という意味である。現にそこにいる男たちや女たち、老婆や子供たちを含んだ、この自分の教団が現存するということを信じない牧師は、教会の現存を全く信じていないのである。『われは教会を信じる』とは、この場所で、この可視的な集合において、聖霊のみ業が起こることを私は信じる、という意味である」。
 使徒信条の「一つの、聖なる、公同の教会」は、真の教会のしるし、標識を表現しているが、宗教改革者は「真の教会の標識を、聖書にふさわしい《福音の宣教》と《サクラメント・聖礼典の執行》の中にみた。…福音が純粋に宣教され、サクラメントが正しく執行される教会は《一つの、聖なる、公同の、使徒的教会》である」(モルトマン「聖霊の力における教会」)。
 教会に対するキリストの働きかけ、現臨を約束した聖書の一つが次の箇所である。
 マタイ18:20「私の名によって、二人または三人が集められるところ、そのところで彼らのただ中に私はいるからである」(シュニーヴィント訳)。
 ここでの「イエスの名によって」はイエスの力の現臨、所在を示す、行伝3:6「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」、4:10、ヨハネ14:13など。この「名」はみ霊の支配とも関連する。第一コリ6:11「主イエス・キリストの名によって、また私たちの神の霊によって、義とされる」、行伝4:7など(シュヴァイッアーの注解)。
 「二人または三人」という数は、前の19節の「二人」、16節の「二人または三人の証人」(第二コリ13:1)に出ているが、「恐れるな、小さい群れよ」(ルカ12:32)と呼ばれた弟子集団の一部分をさしていよう。マタイ10:42「(私の)弟子という名のゆえに、この《小さい者》の一人に冷たい水一杯でも飲ませる者はほうびにもれることがない」においては弟子たちは「小さい者」とよばれていた。「18:20では、ある教会制度も、その教会の大きさも、聖なる場所も教職者による祝福(の動作)も、この世における彼らの目に見える成功も問題とはならない」(シュワイッァーの注解)。
 「集められる」は協会訳、塚本訳、ザントは能動形「集まっている」と訳すが、もともとは受身形なのでシュニーヴィント、シュヴァイッア一訳の「集められる」がよい。
 「イエスを思い起し、イエスの言葉と行為について語り、その生涯と死を想起するところ、その者たちのただ中にイエスはいたもう」(シュニーヴィントの注解)。
 この箇所は当時のユダヤ教のラビ文献の言葉が関連しているという、「二人が並んですわり、彼らの間に律法の言葉があるところ、そのところに彼らの間にシェキーナ、神の臨在がある」(シュニーヴィント、グニルカ、シュワイッアー)。
 しかしこの箇所は、このようなユダヤ教的な立場、律法が読まれるところに神の臨在があるという見解とは対立した立場をいっている。その決定的な対立、違いは「イエスの名によって」という点である。ユダヤ教徒はイエスの名によっては集まらないからである。あらかじめイエスの臨在を信じて人々が集まる、それが「イエスの名によって集められる」の意味である。
 マタイ伝は注目すべきことに、三つの箇所で、神の臨在を言っている。まず「誕生されたイエス」が神の臨在であると、1:23「神われたと共にいます」、ここでは「聖霊によるイエスの誕生」という出来事が神の臨在を示す。また28:20では「復活し高くあげられたイエス」の弟子たちへの臨在が約束されている。ここでは「高くあげられたイエス」(28:20)の小さな信仰者の群れ・教会への臨在が述べられている。「ヤハウェがその民と共におられたように、イエスはその教会と共におられる。しかもその場合イエスは二人あるいは三人からなる小さな群れと共におられる」(グニルカの注解)。
 この箇所についてボンヘッファーはこう語っている、「私は信仰においてのみ、教会を理解し、信仰のみが必然的に生じる(人間的、宗教的)共同体体験を《教会体験》という意味に解釈することができる。人間は宗教的共同体のみを体験する。しかし彼はこの宗教的共同体が《教会》であることを知る。二人あるいは三人がキリスト教的共同体の中で出会う場合にも、あの約束(マタイ18:20)に基づいて教会が信じられるのであり、この体験は信仰においてのみ教会体験である」(「聖徒の交わり」1930)。
 続けて、ボンヘツファーは「教会を信じる(使徒信条)とはどういうことか」を問い、それは、決して見えざる教会を信じるとか、選ばれた者の集いとしての教会における神の国を信じるとかをいうのでなく、「神の御言葉と聖礼典の執行される具体的体験的教会をご自身の教会となさったこと、それがキリストの体、すなわちこの世におけるキリストの現臨であること、約束に基づき神の霊がそのうちに働いていることを信じることである」と述べている。
 イエスの名によって、すなわちイエスの臨在があることを知つて、二人あるいは三人が集められるところ、そこに実際にイエスの臨在があることを信じることが、この箇所のポイントである。注目すべきことに、このイエスの教会への臨在は、静的な集合の状態におけるものではなく、むしろ集合したキリスト者の「ある行動の中へ」の「動的な臨在」であると思われる。18:19では「信仰者の共同の祈り」への臨在が述べられている「もしあなたがたのうちの二人がどんな願いごとでも、心を一つにして地上で祈るならば天にいます私の父はそれをかなえてくださるであろう」。また28:20では「すべての国民への宣教、洗礼の授与などイエスの戒めを守る行動の中に」イエスの臨在があることを述べている。この箇所では「イエスのみ名によって集められる」すなわち、イエスのみ名が宣教され、聖書が解釈され、聖礼典が行なわれる「礼拝的な活動」の中にイエスの臨在が約束されている。