建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの戒め(1) マタイ5:21~22

1996-10(1996/6/23)

エスの戒め(1) マタイ5:21~22 

 (1)プロテスタントキリスト教には、パウロの「信仰による義」(ロマ3:28)あるいは宗教改革の福音理解、特に「信仰のみ、恵みのみ」の見解がなじみやすい。そこでどういう間題が起きたかというと「キリストに従うとはキリスト者にとってどういうことかという問い」があいまいになったという点である。「キリストに従う」のテーマを重く問うているのは「山上の説教(垂訓)」であった。したがってこの箇所マタイ5~7章を学んでいきたい。この十数年の間に、この研究も少し前進してきたようだ。
 「《キリストへの服従》は宗教改革が忘れてきたテーマである。ルタ一派のプロテスタンティズムは、この《服従の倫理》を再洗礼派(アナバプテスト)の教団にまかせてしまった。かくしてルタ一派はアウグスブルク信仰告白第十六条(市民について)を用い、自らを《秩序の倫理》に限定してしまった。…宗教改革論議に含まれていた全局面を(キリストへの)服従の問題、さらに兵役と平和的な役務の問題の中で私たちは認識しなけばならない。この論議は、ドイツ教会闘争においてはじめて現実的な動機から再び取り上げられた。デートリッヒ・ボンヘツファーの『服従』(1937)は、それに対する最も明らかな貢献である」(モルトマン「服従と山上の説教」1981)。
 ここで指摘されているのは、プロテスタントの教会が伝統的に「山上の説教」を取り上げなかった、避けてきた、正しく読むことをしなかったことである。
 (2)はじめにイエスの「反対命題」から入りたい。マタイ5:21~48である。内容的には「兄弟、婦人、離婚、誓い、悪人への対応、敵」の六つがテーマとなっている。
 マタイ5:21~22「殺人と兄弟への怒り」
 21「あなたがたは、《昔の人》が次のように言われたことを聞いた、
   『あなは殺してはならない。殺した者は裁判にかけなければならない』。
 22《しかし私はあなたがたに言う》、
   『誰でも自分の兄弟に怒る者は、裁判にかけなければならない。
    自分の兄弟に対して《ばか》という者は、サンヘドリンにかけなければならない
   《畜生》と言う者は火の地獄で罰すべきである』」
 21節の「昔の人が言われた」内容、すなわち「あなたは殺してはならない」は出エジプト20:13の「十戒」からの引用。「殺した者は裁判にかけられなければならない」は直接の引用ではないが、出エジ21:12「人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない」などをふまえたもの。
 21節の「昔の人」はここでのポンイトである(他に5:33、ルカ9:9、19)。ここは従来「ユダヤ教の聖書解釈」と解釈されてきた(ザントなどの注解)。そうなると
エスの語られた反対命題は、ユダヤ教とは違った特異の解釈ということになる。宗教改革者などは、神の律法をユダヤ教が誤った解釈をしたのに対して、イエスは否を主張したとみた。しかし「(昔の人が)言われた」という受け身形は「神によって言われた」を意味している。また「昔の人」自体は、ユダヤ教の律法解釈を越えて「モーセモーセの律法」にさかのぼると解釈すべきである(エレミアス、ルツ、E・シュワイッアーなど)。
 そうなるとイエスの反対命題が「何に対する反対命題なのか」も変わってくる。宗教改革者の場合、 イエスの言葉はユダヤ教の律法解釈とは異なるが、モーセの律法とは異ならないことになる。しかしそうではあるまい。
 「イエスは反対命題においてご自身の言葉を、ユダヤ教的律法解釈に対置されたのではなく、旧約聖書の神の言葉自体に対して対置されたのだ」(ルツ「山上の説教」)。
 「裁判にかけられる」は、出エジ21:12など「人を撃って殺した者は、必ず殺されなければならない」をふまえ、直接罰を言ってはいないが、間接的に厳しい罰を想定している。22節の前段も同じ。
 22節の「《しかし私はあなたがたに言う》」は、いわゆる「反対命題」と呼ばれるもの。ここではイエスは同時代のユダヤ教の律法解釈(ハラカー)(旧約聖書とは別物である)をあてこすりなさったのではない。ポイントは別のところにある。
 「反対命題において《しかし私はあなたがたに言う》と語る方は、単に自分を律法の正しい解釈者をもって任じているだけではない。イエスは自らを律法に対立させており、それは前例のない、大胆きわまる革命的な振る舞いなのである」(エレミアス「イエスの宣教」)。
 《怒る心もってすでに殺人は始まっている》とイエスはみなされている。「罪の徹底化である」(エレミアス)。ボンヘツファーの「服従」にはこうある。「兄弟との間にすえられた境界線を踏み越えることは、悪い言葉《バカ、おろか者》という言葉をとおして起きる。怒りはすべて他者の生命と対立し、彼に生命を与えず、彼を滅ぼすことを目指す。その言葉は兄弟に向っての一撃であり、その心に向っての一突きである」。
 「兄弟に対してバカと言う」において「バカ」は原語ではアラム語「ラカ」とある「愚か者、バカ」の意。ドイツ語訳などでは直訳で「ラカ」と訳した(ルツの注解など)。
 「畜生」は兄弟を罵倒することで、人間の尊厳への攻撃であり、最も厳しい罰「火の地獄ゲヘナ」に定められるという。しかも下される刑罰は「裁判、サンヘドリン・最高法院・火の地獄」とだんだんエスカレートして重い罰となるとある。これは修辞的な表現。
 イエスのこの反対命題の「新しさ」はどこにあるのだろうか。確かにここでは殺人の行為自体よりも、殺人に至る当人の心、怒り、誹謗が問題とされることによって「律法の徹底化」が起きている。「怒り、誹謗」などについてのユダヤ教の立場とイエスの教えをくらべてみたい。
 クムラン文書、宗規要覧「隣人に短気に語ったり、隣人の意見に逆らって忠告をしりぞける者は、1年間罰せられる」(6:26)。ラビ、エリエゼル・ヒルガンは「自分の隣人を憎む者は、血を流す者である」と語ったという。ベン・シラの知恵28:11「軽はずみな口論は流血に至る」、34:24「隣人の生活手段を奪う者はその人を殺すのと同じである」。ラビ文献「人を怒る者は、害を与えなくとも、主の大いなる怒りを招く」。
 イエスの要請、教えでは、殺人の行為自体ではなく「殺人に至る当人の心の前段階の状況、《怒り》を問題にされた」点に特異性と新しさがあるとは一応いえる。しかし当時のユダヤ教の勧告と比べて内容的には「何ら新しいものはない」(ルツの注解)。当時のユダヤ教では律法は、法体系の基礎、市民的秩序、外的義務ばかりでなく、人間全体への神の教えでもあった。ユダヤ教では「法の秩序」とそこから導きだされる「勧告」とはうまく調和、共存していた。それに対して、イエスは反対命題において「勧告」を「法の秩序」と《対決》なさっている。《イエスは両者を対抗させた。これはイエスの教えの新しさである》。イエスにおいては、法の秩序の維持は眼目とはなっていないで、むしろイエスの要請は、決定的にユダヤ教の、この世の法秩序と対立する。イエスの要請、この反対命題全体は、イエス神の国宣教と結合しているからである。4:23。この神の国の宣教の内容、その説教、ここの反対命題にしても、イスラエルの律法と「対立する」「終末論的な神の法」なのである。
 22節の内容にしても、宗教改革者たち「イエスの戒めを守ることは不可能である」と考えた。イエスの要求「兄弟に怒るな」を受けとめられる「場」が、彼らの「教会」にはなかったのだ。これに対して、イエスはそのように考えておられない。5:16「人々があなたがたの善い行いをみて、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」などではイエスも、戒めを実行可能なものとみている。 したがって神が実行不可能な戒めを与えられたとみるのは、神への冒瀆であり、また山上の説教を「心情の志向におけるもの」とみなしあらわな行為において実現すると考えない者はイエスを偽りとすることになる(モルトマン「イエス・キリストの道」)。神の御子イエスの歴史をみると、イエス服従をとおして復活に至る道を父なる神と共にたどられた。キリスト者にとっては、生ける主の臨在を体験することをとうしてのみ、イエスのラディカルな、徹底した要求は、実行を要求された福音の核心として迫ってくる。(続)