建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの戒め(2)姦淫について  マタイ5:27~30

1996-11(1996/6/30)

エスの戒め(2)姦淫について  マタイ5:27~30

 5:27~28は姦淫についての反対命題。
 「『あなたは姦淫してはならない』と言われたのをあなたがたは聞いた
  しかし私はあなたがたに言う
  『情欲的な眼差しをもってある人妻を見る者は誰でも、
   自分の心の中ですでに姦淫を行なったのである』」
 「姦淫してはならない」はむろんモーセ十戒にある、出エジ20・14。
 28節の「女・グネー」は女性一般のこと(協会訳)ではなく、「人妻」(塚本訳、ルツの訳)。「姦淫する・モイケノー」は単純に「性的に淫らな行動をする」でなくあくまでも既婚者の不倫「姦淫・Ehebruch・結婚をこわすこと」を意味する。「情欲的な眼差しを《もって》」は、他の人の結婚を破綻させる目的をもった意図的な眼差しを問題にしている。ここの「情欲的な眼差しをもって、ある人妻を見る」という表現は、眼差しと情欲や性的な淫奔とが結合された考えで、29節「あなたの右の目があなたを(性的罪に)誘惑するのなら」にも、それが強く表現されている。
 この反対命題は「姦淫について」イエスが言われたものである。当時のユダヤ教の見解では、不当なことではあるが、シュワイツァーによれば、姦淫とは「妻にのみ関わるもの」で、夫には妥当しなかった、すなわち、結婚したユダヤ教徒の婦人・人妻が独身の男性あるいは非ユダヤ人の男性と性的な関係を結ぶこと、これが姦淫であって、男性が同じことをしても、姦淫とはならなかった(「山上の説教」)。この点はこの反対命題の範囲を限定する意味でふまえる必要がある。イエスは一般的に、既婚や未婚の男性や女性が異性を「情欲の眼差しで見る」ケースについては、第二義的には言っていても、第一義的には従来妻の姦淫や妻の追い出し(31節以下)について法的にガードされて、自分を正しい人間とみなした「既婚の男性」に焦点を当てて、その律法的な武装を解除されたのだ。
 旧約聖書ユダヤ教においても「目による姦淫」の例がみられる。ヨブ31・1「私は自分の目と契約を結んだ。私が乙女に目を注ぐことがないためである」。ペン・シラの知恵26・9「身持の悪い女は淫らな目と、流し目でそれとわかる」、12族長の遺言イッサカル7・2「私は目をあげて姦淫したことがない」、ヨベル20・4「彼女らの目や気立てにひかれ姦淫してはならない」、宗規要覧1・6「もはや罪の心と淫奔の目のかたくなに歩まないこと」など。これらの箇所は「異性を見ることがすでに姦淫だ」との立場がうかがえる。
 イエスのこの要求が婦人の権利を守ろうとされた、との解釈もある(エレミアス、F・シュヴァイツァーなど)。例えば「ユダヤ教徒の間では婦人をできるだけ公けの場から遠ざけた。婦人はもつばら家の中に閉じこめられた。どうしても外出する場合には、編み上げた髪で事実上顔を隠した。…イエスの周囲のユダヤ人社会は性的欲望を克服不可能なものとみなしたので、婦人を一般の場から排除することによって、彼女らを守ろうとした」(エレミアス)。
 「情欲の眼差しをもって人妻を見る者は、すでに心の中で姦淫したのだ」とのイエスの主張は、第一の反対命題と同様、律法の「先鋭化」が見られる。姦淫という罪の行為の始動する点「姦淫とは眼差しをもって、心の中で起きるものだ、したがって法律ではかって確定したり、判決を下すことのできないもの」とされたからである(シュワイツァー)。
 結婚制度については、イエスも肯定されている(19章)。他方では、当時のユダヤ教において結婚、性的な交わりを全く禁止したユダヤ教の分派 砂漠の修道院クムラン教団」も存在していた。洗礼者ヨハネもイエスも独身であったようだ。しかしエレミア16:1以下が示すように、独身は通常の形ではなかった。
 当時のユダヤ教がすでに「目による姦淫」を知つていたのであるから、この点については婦人の権利や不倫の危険性から守ることよりも、(相手の)夫の権利、情欲の眼差しをとおしてすでにその結婚が壊された夫の権利、を守ることに向けられている(ルツ)。ここで求められるのは「きよさ・眼差しのきよさ」のテーマである。独身制度(出家主義)や独身でいることは、クムランの例をみても「目による姦淫」からは自由ではない。
 ユダヤ教のラビたちは、婦人と目をあわせるのを避ける、あるいは婦人が近づいてくると目をつぶり、物につまづいて転ぶこともあったが、罪を犯すよりもましだとか(シュワィツァー)、婦人、あるいは自分の妻とも一対一で話すのを避ける、婦人とのあいさつも避ける、通りでは婦人の後を行ってはならない、婦人一人に身の世話させてはならない、婦人と二人きりになってはならない、とか(ルツ)、色々な手立てがとられたようだ。
 しかしイエスの要求はもっと「先鋭化」もまたオリジナリティーもある。
 29~30「もしあなたの右の目があなたを誘惑するなら、その目をえぐり出して捨てなさい。あなたの体の一部を失っても、あなたの体全都が地獄に投げ込まれないほうが、あなたにとって善いからである。あなたの右の手があなたを誘惑するなら、それを切り取って投げ捨てなさい。あなたの肢体の一つを失っても、体全部が地獄に投げ込まれないほうがあなたにとって善いからである」。
 ここでは、「右の目、右の手」は、性的な欲望に誘惑するもの、姦淫の道具とみなされている。また「誘惑する・スカンダリゾー」は「つまずかせる」(ザント)「罪に誘う」(塚本)などの訳もある。教会史では「右目、右手」の意味については論議されたが「切り捨てる」などから、姦淫した教会員を「体全体」(教会)から排除するとも解釈された(3世紀のアレキサンドリアのオリゲネス)。
 29節以下は、28節の「ラディカルな服従要求」として理解されている。
 「目はキリストに比べれば取るにたりない。手もキリストに比べれば取るにたりない。目や手が情欲に仕えて、全身が服従のきよさにあずかることを妨げるならば、キリストを犠牲にするよりも先に目や手が犠牲にされるべきである。あなたは目や手の快楽を瞬時自分のものにできても、永遠に体全体を失う。汚れた欲望に仕える目は、神を見ることができない」(ボンヘツファー「キリストに従う」)。
 反対命題はここでも最後の審判における罰「地獄 に言及しているが、「女性への淫らな一瞥」はイエスから切り離されること、地獄行きとなるとされる。パウロは姦淫は自分の体に対する罪であるばかりではなく、キリストの体に対する罪だという(第一コリント6・13以下)。神の子イエスは人間の体を担いたもうたがゆえに、姦淫はイエスご自身の体に対する罪である(ボンヘツファー)。
 イエスはこの反対命題を実行不可能なものとしては語られていない。むしろ弟子たちを姦淫から解放しようとされた。「弟子たちの目をご自身に向けさせなさって、この場合にはたとえ女性をみることがあっても視線はきよいままであるを知つていたもうた」(ボンヘツファー)。「イエスは弟子たちが欲望に打ち克つことを期待していたので、婦人を弟子のグループに加えられた。古い世(アイオーン)は欲望に支配されているから、努めてこれから身を守ることが必要となる。しかし新しいアイオーンには清さが支配し、目の慎みも守られる。『心のきよい人は幸いだ。彼らは神を見るでろう』(5・8)と言われる」(エレミアス)。
 イエスの弟子集団が男性とマグダラのマリアら女性たちと共同生活をしていた事実は、いわば神の国のありよう、「情欲の眼差しをもって女性を見る」ことが克服されようとしていた「しるし」である。ルツもこの立場である。
 アウグスティヌスは男性の共同生活をとおして情欲から解放された生き方を求めた。逆に宗教改革者らは「結婚愛」こそがイエスの要求に従う最善の方法である考えた。結婚愛は「眼差しによる心の中での姦淫」の罪を犯さない一つの可能性となる。