建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

誓うな  マタイ5・33~37

1996-15(1996/7/28)

誓うな  マタイ5・33~37

 マタイ5・33~37
 「さらに、昔の人に対してこう言われるのをあなたがたは聞いた、『あなたは偽りを誓ってはならない。むしろあなたの誓いは主に果たさなければならない』と
 しかし私はあなたがたに言う、『そもそも誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。天は神の御座であるから。また地にかけて誓ってはならない。地は神の足台であるから。またエルサレムにかけて誓ってもならない。そこは大王の都であるから。またあなたの頭にかけて誓ってはならない。あなたは髪の毛一本も白くも黒くもできないのだから。あなたがたの言葉は、《しかり、しかり》《いな、いな》であるべきだ。それ以上のことは、惡魔によるものだ』」。
 第四の反対命題は「誓うな」である。33節前半の「偽りを誓うな」は、モーセ十戒にある、出エジ20:7。後半は民数30:3「あなたが主に誓願をかけるなら、その言葉を破ってはならない、口で言ったとおりすべて行なわなければならない」(他に申命23:22以下)に由来する。
 「天にかけて誓う、地にかけて、エルサレムにかけて」はいずれも「神にかけて誓う」の間接的な表現である。23:16~22参照。「頭にかけて」は当時のユダヤ教の「私の頭の生命にかけて誓う」をふまえたものだが、「あなたは自分の髪の毛一本も白くも黒くもできない」は人間の無力さを明白に示している。
 37節がポイントである。ここの「しかり、いな」の反復の例はスラブ語エノク49:1にもある「人々の言葉が真実でない時には、人々はしかりという言葉、いなという言葉で誓うべきだ」。宣誓の拒否の例は、ホセア4:15「主は生きておられる、と誓ってはならない」。ベン・シラ23:9~11「むやみに誓いをたてるな。数多く誓う者は不法に満ち、誓いに背ければ二重の罪を犯す。偽りの誓いをなすならば、その罪はゆるされない」。フィロン(後50年ころ、哲学者)ももっとも善いことはすべての言葉が宣誓として妥当するほど真実であることだ、といった(シュワイツァー)。
 しかし、37節の反復は「あなたがたの言うしかりはいつの場合もしかりであれ、あなたがたの言ういなはいつの場合もいなであれ」という意味だという(エレミアス)。
 「この箇所でイエスが取りあげられたのは、法律上の誓いではなく、嘘を言わないことである…イエスは弟子たちから無条件の真実を期待しているから、弟子たちにはこういうまわりくどいことは不必要である。それで『あなたがたの言葉はしかりしかり、いないなであれ』と言われた。どんな発言も無条件に信頼できるものであるべきであり、神を引き合いに出して保証する必要のないものでなくてはならない。真実は真理の神の支配のしるしである」(エレミアス)。
 さて「誓い」とは西欧では自分の発言する内容の証人として自分が神を立てることである。日本の裁判における宣誓はこの点であいまいである。この箇所の解釈は、さまざまに別れていて、確定したものがないという。古代教会においてもアウグスティヌスは、プラトンやアウレリウスなどを引き合いに出して、誓いというものは高貴な人間にふさわしくないとみた(ボンヘツフアー「キリストに従う」)。宗教改革の教会においては、イエスの「誓うな」との命令は真剣に受けとめられなかった。 彼らはこの世の官憲に要求される誓いを、イエスのこの言葉と無関係なものとみなし旧約聖書は誓いを命じられているし(前掲、民数30:3)、パウロはたびたび誓いに似た決まり文句を使っている(第二コリ1:17以下)というのが彼らの論拠であった。
 誓いにおいて眼目となるのは、自分の発言内容が真実であるかどうかということであるが、「誓い」は嘘、偽りではないとの表明方法である。すなわち誓いはその外の大多数の発言が「嘘」であることを前提としている。嘘のないところには誓いは不要である。誓いはこの点で、嘘を防ぐ手段である。
 旧約聖書の律法は、誓いによって嘘を退ける。これに対してイエスは誓いの禁止によって嘘をしりぞけられる。誓った者がその誓いの中でつく嘘は防ぎようがない、誓いは嘘の逃れ場になるのだ。誓いは嘘を防御できないのだ。だから嘘を締め出すためには、嘘の隠れ家である誓いを禁止せざるをえない。他方、誓いを拒絶することで、真実を語るのを逃れることがあってはならない。
 現代において「誓い」が問題となるのは、裁判の証人や国家や政治的権力に対するものである。特に、国家権力に対してキリスト者が「忠誠の誓約」を求められる場合がある。1934年、ナチスの総統、国家元首ヒトラーに対する公職にある者が忠誠を求められた時、告白教会の牧師(公職にある者)はその誓約を拒否した。カール・バルトは宣誓を拒否して大学を退きスイスに帰った。キリスト者がキリスト、神の言葉に拘束されるのではなくて、ヒトラーに全体的かつ外的に拘束されることは、キリストの御心に反するとみなしたからである。パウル・シュナイダ一牧師の殉教は、ナチス強制収容所においてハーケンクロイツナチス党の旗への敬礼、忠誠を拒否したからであった。     満州事変開始後の日本の教会も、神社参拝の強要を国家・文部省に迫られて、それに屈伏し、太平洋戦争開始直前の、1941年6月には日本の教会はドイツの教会闘争の鋭い間題意識を欠落したまま日本キリスト教団は「われらは皇運を扶翼し」との天皇制国家への「忠誠の誓約」を公にした。その場合「国家権力に従え」というパウロの言葉は、政治的支配者への「忠誠」を要求したものではない。日本のキリスト者の決断はドイツ教会闘争の牧師たちとなんという違いであろう。「それ以上のことは悪からくる」(37)は当時の日本のキリスト者に妥当する。
 キリスト者が団体、政党に入ることは、「誓うな」の言葉のもとで検討されるべきである。政党による決定が、キリスト者の行動を束縛するならば、キリスト者であることと、政党の党員であることが矛盾をきたし、その交わりを壊すことになる。昨年の「宗教法人法改正」問題ではこのこと、党の決定と信仰者の立場に分裂がうまれて、キリスト者であることよりも、党員として行動した者がいて、今日の状況を生んだ。
 キリスト者が真実でありうるのは、神に向って神の前で秘密やおおいを持たないということである。キリスト者はキリストの前で自らが罪の中にあることをあらわに示される。「真実はおおいを取りさられた罪からのみ生じる」(ボンヘツフアー)。同時に、その罪もイエスによって赦されている。イエスが弟子に求められる真実は罪をかくすことをしないところで成立する。イエスの十字架が私たちのこの罪をあらわにするのであるから、神の真実であるところの、十字架だけがキリスト者を真実なものとする。イエスの前に立たない人間には真実であることはなかなか困難となる。人は他者に対して自分のあるがままの姿を隠しおおうからである。そしてイエス、神に対して真実であることは同時に他者に対しても真実であることが求められる。
 ここの「誓うな」でイエスが語りたもうことは、第一に、ボンヘツファー、エレミアスが明らかにように、イエスと他者に真実であることである。そして真実であることから、真実を語ること、嘘をつかない行為が生まれる。神と人に対しておおいを取り去って、真実に生きること、これはイエスに従う生活である。