建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

主は避け所  詩37:39

1996-18(1996/9/1)

主は避け所  詩37:39

 詩篇37では、神を信じない者がこの世で力を得て栄えるという現実(35節)、敬虔な者が彼らの繁栄に「心を悩ませ、妬む、怒り、いきどおり」という現実(1、8節)が取り上げられている。
 1節で「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。罪人のゆえに、妬むな」とあるが、その根拠としてこうある。「悪を行なう者は減ぼされ、ヤハウェを待ち望む者は地を継ぐからである」9節、「ヤハウェを待ち望め。その道を堅持せよ。彼はあなたを高くし、地を継がせてくださる。あなたは、悪人の減びをみるであろう」34節。
 これらの箇所では勧善懲惡、敬度な者の幸福と悪人、神を信じない者の滅びの運命を述べているように見えるが、決してそうではあるまい。
 惡人の栄え、これはパレスチナ以外の外国にいた散らされたユダヤ人には、かなり一般化した、いわば確定した現実であったろう。それに引き換え、敬虔な者「正しい者」12、16、17、24、26、28、29、39節などは宗教的な意味で敬度な者のこと。彼らは、この世の生活で遅れをとっている。「正しい者・義人の持つ少しのものは、罪人の多くの富にまさる」16節。ただこの37篇では、敬虔な者が、自らの乏しさ、不幸に我慢できないで、さらに一歩すすんで敬虔でない者、異教徒の栄えに対して「悩み、怒り妬む」という深刻な事態に及んでいる点に特徴がある。
 このいらだち、忿選、疑念に対して、さまざまに勧告がなされる、これがこの詩37のテーマである。
 (1)勧告の一つは「ヤハウエを待ち望め」である、9、34節。
 また「ヤハウェに対して、静かにせよ。ヤハウェを待て。成功者のゆえに心を悩ますな、ずるいことをしている者のゆえに」7節である。
 勧告は具体的であって、ここでの「ヤハウェに対して静かにする」はイザヤ30:15「静かにして、希望をもつことによって、あなたがたは強くされる」と関連する。イザヤの箇所では自己判断を離れて、神に活動の余地を残しておく、という意味である。しかしここでは、この世での成功や幸福へと駆り立てられ、それゆえに、不義なる者の栄えに心を悩ませる、このような内面の動きに対して、格闘すること、自らの幸福へと駆り立てる自分の心との自己格闢がある。したがって、ここには、詩131:2「私はわが心を静めて、安らかにしました」といった「ゆるめられた気分」がなく、自分の欲望との格闘という緊張がある。欲望と格闘、葛藤する自分に対して、「あなたの道をヤハウェにゆだねよ。彼に信頼せよ」5節と言われ、同時に「怒りをやめ、憤りを捨てよ、心を悩ますな」8節と勧告がなされる。すなわち「ヤハウェに対して静かにせよ、ハヤウェを待て」は、この世的な欲望から解放された、平安な心ではなく、むしろ欲望的自己との格闘の状況を意味する。忍耐はこの格闘において「神に自分の状況をゆだねる」ことから生まれる。希望のテーマが欲望との葛藤、克服の問題として提起されている点は、含蓄がある。
 「地を継ぐ」9、11、22、34節という表現は、イスラエルの「土地取得の出来事」が民の力によるものではなく、むしろ神の恵みの体験であった記憶にもとづいている。すなわち神からの恵みの賜物を意味する。
 (2)「ヤハウェは苦境にある時の避け所である。ヤハウェは正しい人々を助け、彼らを救い出される。彼らはヤハウェを避け所とする」39、40節
 70人訳は「避け所とする・ハーサー」を「希望を抱く」、「避け所・マヘセー」を「希望」と訳した。他に、詩57:1「私はあなたの翼の陰に望みをおきます」、61:4、91:4、17:8、7:1「わが神、ヤハウェよ、私はあなたに望みをいだきます」など。名詞「避け所」を希望と訳したのは、14:6「ヤハウエは彼の避け所」を「ヤハウェは彼の希望」、62:7「神はわが助けの岩、わが望み」、73:28「私は主なる神をわが望みとします」、91:9「あなたは主に希望をいだく」など。
 なぜ70人訳はこのように翻訳したのだろうか。一つのヒントはルター訳が与えてくれるようだ。すなわち、ルター訳は「避け所とする」を「信頼する:vertrauen」と訳す。この37:39を70人訳は「主は苦境の時の保護者」と直訳しながら、40節は「主は彼らを救われる。彼らが主に望みをいだくからである」と訳した。
   70人訳がこのような翻訳をしたのは、「神を避け所とする」という「神信頼の行為」は、希望がどこから生じるかを示す。神を信頼すること、そこに希望がうまれ、またそこに希望が存在することを意味している。