建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

明治維新とキリスト教1  イザヤ32:15

1996-22(1996/9/29)

明治維新キリスト教1  イザヤ32:15

 日本の教会史を特に「プロテスタント教会天皇制」の視点から学んでみたい。キリスj教が日本という異質の政治的社会的体制、精神的風土と出会い、入っていく場合、日本人の心に根をおろす「根づき」あるいは「土着」(同質化)よりも、むしろその異質性との「対決」が大きな課題、テーマとなる。あまりに同質化したものに人々は関心を持たないし、惹きつける力も感じない。
 明治維新は、近代政治の開始と一般に考えられているが新政府の「宗教政策」はまことにひどい前近代的なものであった。維新政府は《神道国教化》のために、三つの宗教政策を出した(村上重良「天皇制国家と宗教」1986、これは名著で感動して読んだ)。「神道国教化」「排仏毀釈」「キリシタン禁令」である。
 まず、1868・慶応4年1月、維新政府は「神祇官を再興」した。神祇官奈良時代の大宝令 (701)に存在した官職で、維新政府はその再興によって祭政一致を布告した(これは三年半で廃止されたが、神道化政策は次の「大教宣布」などでも継続された)。
 次に、排仏毀釈。神道の国教化には仏教界の強い抵抗が予想されたので「神仏の分離」の政策「神仏判然令」を出した、同年3月。神仏の「習合」はある種のシンクレティズム宗教混淆のことで、奈良時代から千年以上の長い歴史をもつ。特に習合の教義「本地垂迹説」においては日本の神道の神々を仏、菩薩の権(かり)の現われ、権現と位置づけ、仏、菩薩が本体、神々はその投影とされ、仏は神社の神よりも尊い存在とみなされた。江戸時代でも寺院と神社が併存する場合には仏教が断然優位を占めていた。維新政府はこれを「社寺」に逆転した。排仏毀釈の具体例では、滋賀県坂本の日吉山王社で、神祇官権判事以下40名が同社の神殿の鍵をこわし、中の仏像、仏具、経巻などを外に投出し、代わりに神体を祀つた事件がおきて、この運動が全国に拡がった。これは仏教界に大打撃であった。さらに71・明治4年には寺社領は政府に没収された。
 さらに、同年3月、太政官令で「キリシタン禁令の高札」が出されて、江戸幕府同様にキリスト教を新政府は禁止した。「キリシタン禁令の高札」。幕末におけるカトリックの日本への布教は、1859年にフランス人宣教師のジェラールが司祭兼通訳として活動し横浜の外国人居留地に天主堂を建て日本人の関心を惹いた。宣教師プチシャンは63年長崎にきて、大浦天主堂を建てた。やってきた十数人の農民の一人農婦イザベリアゆりは「サンタ・マリアの像はどこか」と言って、プチシャンを驚かせた。堂内に入った農夫たちはその像の前でひざまづいて祈ったという。彼らこそいわゆる隠れキリシタンであり、報告を受けた教皇キリスト教諸国民を驚かせた。67年、キリシタンを名乗った浦上のキリシタン700戸は寺と絶縁して仏葬を拒否し自らの葬儀に変えた。長崎奉行所は、主な信者68名を捕らえ拷問を加えた。
 維新政府は、一方で欧米の先進的な文明の精力的な導入をはかりながら、他方では神道国教化政策のゆえに、キリスト教の進出を断固としてはばもうとした。そしてキリスト教を「邪宗門」と規定した。さらに4月、新政府は浦上のキリシタン3380名を西日本の諸藩に流罪にした。総督府の参謀井上馨の取り調べに対するキリシタンの行動については拙著10ページ参照。流刑先では、彼らに棄教の強要、拷問、苦役などの迫害が加えられ(特に、津和野藩の弾圧は熾烈をきわめた)、流刑の終る5年間に562名が生命を奪われた。 この大弾圧は欧米キリスト教諸国およびその外交団の激しい抗議を招いた。
 プロテスタントの宣教師たちも、相次いで、幕末に来日していた。ヘボン(アメリカの長老派、明治学院の前身の英和学校創立、明治7年横浜長老教会設立)は神奈川で医師として宣教師として活動した。アメリカの改革派のフルベッキ(59年来日、佐賀の藩校・致遠館で英語を教え、大隈重信副島種臣らを指導。数名の藩士が受洗。のち上京、衆議院顧問、一致神学校、明治学院の教授)。S・ブラウン(ブラウン塾で英語、神学を教え植村、井深、本多らを育てた)、バラ、バプテストのN・ブラウン(横浜バプテスト教会設立、明治12年、聖書翻訳を完成)、ゴーブル(60年来日、明治4年にマタイ、使徒行伝の最初のひらがなの翻訳完成は神奈川で布教した。 政府は宣教師らの活動を監視するために異宗捜索諜者を任命し長崎、神戸、横浜などに派遣した(71・明治4年)。
 プロテスタントの最初の教会は横浜の日本キリスト公会(海岸教会)である。宣教師バラ(1832ー1909)はオランダ改革派のアメリカ人宣教師で1861年に来日し、横浜で伝道した。英学校(バラ学校)で英語を教えた。日本語を教わっていた医師矢野隆山の懇請で彼に洗礼をさずけた(同席したへボンが日本語で祈った)。65年のことである(井上平三郎「濱のともしび」)。日本キリスト公会(横浜公会)は、バラの自宅で行なわれた日本語の礼拝、家庭集会に始まる、66・慶応2年。老婦人、英学校の学生、武士の子弟、バラの召使など十名ほどであった。バラらは幕府から下付されていた土地に石造の小会堂を建て、祈祷所、英語の教室につかった(71・明治4年)。
 この小会堂で、翌72年正月、 日本人による聖書講読、祈祷会が開かれた。篠崎桂之助、植村正久、小川義經(よしやす、タムソンの日本語教師、明治2年に受洗、当教会の最初の長老、後に東京日本キリスト公会[築地]を設立、按手礼を受けて奥野昌綱らと最初の日本人の牧師となる)。安藤劉太郎(彼こそ潜入した太政官のスパイで、教会の内情を諜報をしていた)、押川方義、その後、奥野昌綱、井深梶之助、本多庸一、山本秀煌らが加わった。これについては、後に植村正久が回想記事を書いている。それによれば、バラは使徒行伝2章のペンテコステについて熱心に説明した。「会する者およそ三十名、今まで祈祷の声を発することなかりし甲祈り、乙これに次ぎ、あるいは泣き、あるいは叫びて祈りするもの互いに前後をあらそうごとくにありき。バラ氏はかねて伝え聞きたるリバイバルのことを羡み、親しくその時節に遇うこともがなと希望せしことなきにありしが、まのあたりに一大リバイバルを見たる心地せりという。いまだバプテスマも受けしことなく、公然祈りなせしことなく、いかなる宗教思想を抱きつつあるかを知らざりし数名の少年が、俄然自ら希望してかかる有様に立ちいたりしものなるをもって、その驚愕一方ならず、時としては茫然としてこれに処するの途を見出すに苦しめる場合もありしほどなり」(「福音新報」明治25年、井上前掲書)。この祈祷会は一週間の予定が、3月まで続き先の9名が洗礼を受け、小川を含めた合計十一名が教会設立メンバーとなった。むろんキリシタン禁令の時期であったので密かに計画された。設立は、72年3月。
 明治維新の時期の日本人、あるいは現代の日本人の中に、キリスト教が入っていく場合キリスト教の教義、聖書の教えと、維新当時、現代の日本人の社会構造、メンタリティー・精神構造と対立するものが、この横浜公会の設立時の教会の規則でどのようにふまえられていたのであろうか。これは、日本の教会、キリスト者には大きなテーマとなる。
 日本キルスト公会・横浜公会の設立における規約は、「公会規則」の本文十五条、内規十六条であったが、本文の、「行なうべきこと」の中に「偶像を拝せず」、「およそ十戒の条々終身つねに守るべく行なうこと」などもある。このほかに「追加項目案」があった(小川三郎「幕末明治キリスト教史研究」)。それは安藤諜報によるものである。その項目は「会外の責を怖れるものあり、ついにその論一定せず、しかし入宗の徒は永く心に誓いてこれらの条を固守すべきは勿論と宗規と教師もともに論ずるところなり」と述べられ、禁令の時期にあって政府の弾圧を恐れて、正式には教会の規則に明記できなかった三項目である。第一条「皇祖土神の廟前に拝跪すべからざること」(出エジ21章)、第二条「王命といえども道のために屈従すべからざること」(行伝5:19)。第三条「父母血肉の恩に愛着すべからざること」(マタイ12:48)。
 この三項が正式規則として可決されなかった点について、日本の教会は始めから「天皇制」に対して弱腰であり、きちんとした構えができなかったと、土肥氏は批判する(「日本プロテスタント史論」)。しかし禁令の状況のもとで「会外の責(政府や他の勢力からの追害)を怖れるもの」が教会の中にいて、いわば非合法の教会活動について警戒したキリスト者がいた事実は、単純に臆病とはいえまい。「入宗の徒(信仰に入る信者)は、永く心に誓いてこれらの条を固守すべき」の部分は重いと思う。むしろ、正式な規則の倫理綱領にうたわれている「偶像礼拝の禁止」「十戒の遵守」とつなげてみると「神道的な宗教行為の禁止(第一項)、信仰のゆえに(「道のために」)王命(天皇の命令)への屈従禁止(第二項)」は、維新当時の政府、日本人には衝撃となりえたと考える。眼目は、この三項の実践にあった。