建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

朝鮮植民地伝道の問題

週報なしー46

朝鮮植民地伝道の問題

 宗教者の戦争責任のテーマで加害者の側面が強く出てくるのは、やはり朝鮮、中国における植民地伝道である。これについては中濃教篤「天皇制国家と植民地伝道」1976が先駆的研究である。
 日本の統治下にあった朝鮮(1910~45,明治43~昭和20)において日本のキリスト教諸教団の朝鮮伝道、朝鮮のキリスト者との交流が、総督府の支配政策にどのように協力加担し、それをとおして朝鮮のキリスト者にどのような圧迫や苦しみを与え、彼らの人権、信教の自由をふみにじり、希望をくじく役割を果たしたかを明らかにすること、
 これが宗教者の戦争責任のテーマの一つである。この視点で35年間の朝鮮の歴史を見なおしていくと、日本組合教会の朝鮮植民地伝道、富田満の朝鮮の長老教会に対する神社参拝説得工作(1938年、最後の項目)などが目をひく。ここでは組合教会の朝鮮植民地伝道を取り上げたい。
 日本の宗教界による朝鮮への植民地伝道は明治10・1877年代から開始された。東本願寺の奥村円心は1877・明治10年、釜山に布教所を開設し、さらに元山、仁川、京城にも開設していった(中濃教篤「天皇制国家と植民地伝道」1975)。
 日本のプロテスタント各派においては、組合教会は1903・明治36年10月の総会で朝鮮伝道を決議した。日本キリスト教会も同年10月、朝鮮伝道を決議し、翌1904年2月に秋元茂雄を釜山に派遣し伝道を開始した。メソジストは、同年四月木原外七を京
城伝道に派遣した。組合教会は同年6月剣持省吾を京城に派遣して、京城教会を設立した(飯沼一郎・ハンソクキ「日本帝国主義下の植民地伝道」1985)。乗松雅休の朝鮮人伝道(1896・明治29年開始)、織田年楢次の植民地伝道(1929年開始)などについては省略。

組合教会の渡瀬常吉の朝鮮伝道
 渡瀬常士(1867~1944)は、熊本の八代藩士の家に生まれ、八代の組合教会で18才の時受洗。熊本英学校で教えていた時、校長の海老名の強い感化を受けた。この学校において渡瀬は後に論争相手となった柏木義円(校長代行)とも出会った。
 朝鮮の大日本海外教育会(押川方義、本多庸一らを中心にして、欧米宣教師のミッションスクールに対抗してつくられた私立の日語学校を経営)の資金は、伊藤博文大隈重信松方正義ら政界の大物、渋沢栄一、三井家、岩崎家、古河家などの財界から多額の寄付によっていたが、1899・明治32年渡瀬はこの会の京城学堂の校長になった。この学堂は、日本政府の朝鮮侵略政策にそってつくられた学校であった。渡瀬はここで明治40年まで活動した。その後、神戸の組合教会の牧師となり、1910・明治43年10月、組合教会が朝鮮伝道部を設立し、渡瀬はその主任として再び京城におもむいた。
 翌1911・明治44年京城に漢陽教会、平壌に箕城教会を設立した。また同年12月には、10数の教会が、1912年には、南、西朝鮮のあわせて15の教会が組合教会に加盟した。こうして1013~17(大正2~6)年までの5年間に、教会数は45から143に、教会員数は3600から1万2600余名に、牧師数も22名から98名に急増した。財政面でも6000余円(年)から1万7500余円に増加し、臨時費を加えると2万5000余円に増えた(当時の組合教会教派全体の予算は1万6000円)。組合教会のこの奇跡的発展を支えた財政、資金の出所について重大な問題があった。渡瀬自身資金の出所についてこう語った
 「大正1・1913年10月まずこれを大隈候、寺内伯、渋沢男などに計りしに、いずれも大いにこの挙を賛成せられ、熱心なる援助と至大の便宜を与えられた…幸に東京、大阪、神戸の有志諸君の賛成を得て、爾来5年間その時々の寄付金に由った(「朝鮮教化成績報告」1917、飯沼・ハンソクキ、前掲書)。ここの大隈侯はむろん政界の大物大隈重信侯爵のこと、渋沢男は渋沢栄一男爵、財界の大物、いずれも先の大日本海外教育会の資金提供者で、渡瀬は京城学堂長当時より彼らとつながりができていた。
 寺内伯は、寺内正毅大将のことで、併合以来、朝鮮総督府の初代総督として、伊藤博文初代総監のあと朝鮮支配に絶大な力をふるい、朝鮮人に武断政策をとり続けていた。1910年11月、黄海道の「安武事件」では官憲がキリスト者160名を愛国啓蒙運動の容疑で逮捕した。1911・明治44年1月、平安道(平壌がある)で、寺内暗殺陰謀事件という「デッチあげ」の容疑で600余命が検挙され、拷問でメソジスト(監理)教会の全徳基牧師が死亡、105名が有罪判決を受けた。「105人」事件である。このうち長老教会関係が97名であった。朝鮮社会全体の中でキリスト者の存在は民族意識が高く、総督府の統治に従おうとしない手を焼かせる集団であった(ハンソクキ「日本の朝鮮支配と宗教政策」1988)。寺内総督の統治の基本政策はこのような民族主義キリスト者に対する弾圧と「同化政策」(皇民化政策)であったが、この同化政策を実施する一つの手段として「キリスト教を利用しよう」とした。具体的には寺内は総督府の機密費から年額六千円を「寄付して日本人による朝鮮伝道を行なわせよう」と考え、日本キリスト教会の植村にもちかけたが断られ、組合教会の海老名に接近したところ快諾を受けた。先の渡瀬の報告にある 五年間その時々の寄付」の中にはこの年額六千円の機密費からの寄付が含まれていたのだ(後述)。キリスト者でない大隈、渋沢、寺内総督からの教会の朝鮮伝道への膨大な寄付にはそれなりの見返りがあった。

渡瀬の朝鮮伝道の主張
 渡瀬は伝道開始3年目に「朝鮮伝道の急務」(1913・大正2)を出版してその立場を明らかにし、併合を讚美し総督府の統治をもちあげた。「朝鮮の併合は…東洋の平和を永遠に保障するため、日本帝国存在の必要と同時に、朝鮮一千五百万民衆の幸福を顧念した結果である。…われらは併合後における帝国の施設が着々朝鮮民族の幸福を増進しつつあるを信じる」(飯沼・ハンソクキ、前掲書)。
 渡瀬の主張で特に重大なのは、朝鮮伝道には「二つの課題」があるとの見解である。「朝鮮人の伝道には二重の問題がある。すなわち人類としての教化問題と、国民としての教化問題との二つである。さらに分かりやすく云えば、朝鮮人を教化せんとする宗教家は、朝鮮人を人類同胞の立場より、これを単に宗教的信仰に導くというに止めず、さらに一歩進めて日本と併合せられた朝鮮人として、そのもっとも幸福なる道行はいかにすればよいかと云うことを考え、多少彼らの心のなかに反抗心があっても、それを説きあかして日本国民として立つ覚悟に到着せしめねばならぬ。これは朝鮮民族の幸福を希うの衷情より自然に到着すべき要点である。もし朝鮮民族が日本の国民たる自覚を持つことを拒み、永く反抗心状態にを有しているならば、その不幸はひととおりではない。進歩も、発達もなくしたがって希望もなく、自暴自棄あるのみである。…このような教化をなしうるのは日本の宣教師のみである。外国の宣教師は、第一の点に(宗教的信仰に導くこと)ついてはよくなしうるであろうが、第二の点(朝鮮人の日本国民への同化)についてはほとんど不可能である」。さらに続けて「われらは現にキリスト教によりて皇運を扶翼し、これによりて国民道徳に資している。さればこれによりて朝鮮の民草を教化し、彼らを忠良の臣民となすに難いはずはないと信ずるのである」(同)。
 総督府の寺内総督から膨大な機密費や政財界から多額の資金が寄付の形で出た理由は、この論文を読めば明らかである。渡瀬は、キリスト教の伝道の名を借りて実は総督府朝鮮人同化政策の手先、組織的「先兵」となったのである。渡瀬の伝道は「意図は純粋に宗教的伝道熱から発したが結果的に政府の侵略・統治政策に加担していたという植民地伝道のパターン」をはるかに逸脱して、意識的意図的であって、資金的にも総督府に依存した点など戦争責任、政教の癒着の過ちはおおいがたい。歴史的にみて日本のキリスト者の戦争責任の第一の例となった。

柏木義円の渡瀬批判
 同じ組合教会に属す、湯浅治郎、柏木義円が渡瀬の植民地伝道の方針を批判したが、ここでは柏木の批判を取り上げたい。「渡瀬氏の『朝鮮教化の急務』を読む」(上州教界月報、1914年4月、「柏木義円集」第一巻)の中で、柏木はまず渡瀬の「朝鮮伝道における二つの課題論」を批判する。
 「キリストはもちろん異邦人の使徒たるパウロさえも、いまだかってユダヤ人のローマ国民化を標榜して伝道したことは、聞かない。否な、爾来1900有余年われらの寡聞なるも、いまだかってその某国民化を標榜して福音を宣伝した者あったことを聞かない。しかるに、本書は、もつばらこの第二点(朝鮮人を同化し日本の忠良なる臣民たらしめる)を高調して、在朝鮮の外国宣教師の伝道は単に第一の目的(宗教的信仰に導く)を達するのみなれば、今や日本国民となりたる鮮人の伝道にはその資格において欠くる所ありとなしているようである。福音宣伝は福音宣伝である。キリストの福音は二つあるべからず。パウロはキリストとその十字架の他には汝らの中にあって何をも知るまじと心にきめたといっている(第一コリント2:2)。キリスト教の伝道の目的は、単にキリストの福音を宣伝して人をして悔い改めて神の子とならしむるの一事の外はない。その結果として忠良なる臣民、孝順なる婦人を生ずるも、そは唯その当然の副産物のみである。われらはいまだかって福音宣伝の目的に互いに≪相対立する≫二重の目的のあることを知らない。…神の天父でましまして人類相愛すべき同胞兄弟であることを徹底せしむれば、十分である。…著者は、組合教会の鮮人伝道をもって国民運動と云わるるが果たしていかなる意義であろうか。日本帝国の理想は帝国主義であって、組合教会の鮮人伝道は、内鮮人を打って一団となしもって大陸に発展せんとする帝国主義の経論を翼贊するにあるがゆえに、国民運動というのであろうか。もししからば、純福音の宣伝と帝国主義果たして何の交渉かある。…しかしもし福音宣伝をもって帝国主義の方便となす者があるならば、断じてこれを排斥せざるをえない。…組合教会の鮮人伝道は鮮人の日本国民化で、鮮人をしてその反抗心状態を去り、独立自治を慕うの気概を転じ、日鮮一体の境地に達せしむるにあり。この唱道をもって純福音宣伝に趣味なき日本人を動かしてその物質的援助を得んとするにあるようである。しかしこれは国家が国民教育をもってなすべきことであろうが、敢えてかかることを標榜して伝道するは、果たしてこれ宗教が当になすべきことであろうか。…敢えてその日本国民化を標榜して彼らと相対するがごとき、これ伝道の本旨なるべきか如何。…堅実なる(朝鮮の)クリスチァンすら、国民同化を不快としているというではないか…」。
 第二に、柏木は、渡瀬の伝道資金の出所について追求している。
 「終りに、一言する止むべからざるものがある。それは匿名寄付のことである。ある意味においての匿名寄付は匿名ということがすでに公明正大でないないから、醇のまた醇を期する伝道事業には受けたくはない。…もしこの匿名寄付が(朝鮮総督府の)機密費より出しとせば、その機密費をもって伝道を補助せらるるがごとき、われらのいさぎよしとせざるところである。かつ国民が国費の多端に苦しんで政費の節減を要求しているの際、その租税をもってキリスト教の伝道を補助するがごとき、国民の思いもしないところであろう。しかるにこれを受けてわれらはやましくないであろうか如何」。
 後にこの件について柏木は次の事実をあげている「かって湯浅次郎氏が、組合教会が鮮人伝道に関して八千円かの匿名寄付を受け、すでにその半額を受領いたし候おり、他日組合教会の発言の自由にわずらいあらんことをおそれり、自らその金を出すべければ、よろしくこれを返戻すべしと主張されいたしことを億起いたし候」(1918年8月)。