建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

明治維新とキリスト教(2)  エペソ2:20

1996-23(1996/10/6)

明治維新キリスト教(2)  エペソ2:20 

 日本キリスト公会が横浜に設立された、1872・明治5年からの10年間は、 まだまだ日本全体が動乱の時期であった。
 維新政府の宗教政策である、神道の国教化は着々と布石が置かれていく 明治天皇ははじめて伊勢神宮に参拝し(69・明治2年3月)、同年12月に「神祇官・神殿」がつくられて、「八神(やはしらのかみ)」「天神地祇(あまつかみくにつかみ)」「歴代の皇霊」が鎮祭された(70年正月)。これは「国家が直接、全神社を管理するという新しい宗教国家のあり方を示すものであった」(村上)。他方神祇官に儀式の執行のみをさせるのではなく、「天皇中心の新しい神道を布教するための機関」(村上)「惟神の大道(かんながらのだいどう)を宣撫すべきなり」とされた「宣教使」が設置され、神祇官神道家、国学者儒者が任用された。これが「大教宣布の詔」である(70・明治3年正月)
 同時に5月「神社の社格および神官職制の制定」を行なった。「神社は国家の宗祀(尊んで祀る)にて…」として、全神社を伊勢神宮を頂点に序列化し政府の統一的な支配のもとに置くために、この制定をした。すなわち神祇官の所管となる「官社」、官幣社(全国的な意義のあるもの、大中小、費用は大蔵省負担、別格官幣社として「天皇の忠臣」楠木正成を祀る湊川神社も明治5年につくられた)、国幣社(地方的な意義のあるもの、大中小、費用は地方費と一部国費)と「諸社」(府県社、郷社、村社)とに序列化した。「政府による全神社の一元的再編成と全面支配の体制が実現した。政府が全神社を直接、 掌握し支配するこの体制は、神道の歴史上、前例のない制度であった」(村上)。
 「神祇省」は廃止され(72・明治5年)、代わって「教部省」が新設された(これは明治10年に廃止され内務省に社寺局がっくられた)。教部省は全神社と仏教、民間宗教を管轄する宗教行政機関となった。また宣教使を廃して新たに「教導職」を設けた(明治5年)。教導職は従来とは違って、神道中心の国民教化を神道職ばかりでなく、僧侶、民間宗教家を大動員してなそうとする政策であった。この国民教化運動の基準はむろん教部省によって通達された。これが「三条の教則」である。第一条、敬神愛国の旨を体すべきこと(敬神はむろん神道の神への尊敬)。第二条、天理人道を明らかにすべきこと。第三条、皇上を奉載し朝旨を遵守せしむべきこと(皇上は今の天皇、朝旨は天皇の命令)。これはのちに「三条の教憲」と呼ばれたが、その主眼は「天皇崇拝、天皇の命令への絶対服従を全国民に徹底させることにあった」(村上)。教導職には、伊勢神宮の祭主、出雲大社の大宮司、東西本願寺法主、宗主らが宗教界のリーダーが大教正、権大教正に任じられた(全体で一四級)。その教育施設として《神仏合併》の教化機関として芝の増上寺の境内に「大教院」をつくった(明治6年)。「神仏分離の令」(68年)の否定である。開院式の祭儀は伊勢神宮の神官が主宰し、僧侶も柏手をうって礼拝した。かくして「神仏合併布教」が全国的に行なわれることになった。先の「三条の教則」を敷衍するものとして「十一兼題」を教部省は通達した。そのうちの7項目が神道教義で「神徳皇恩の説」では神徳と皇恩を一体化させた。
 このような教部省による国民強化運動に対して、最も強い反対の声をあげたのは仏教の真宗であった。西本願寺の欧米留学生、島地黙雷は、政教の混同は信教の自由をおびやかす、また神道と仏教とを「採合して一宗を造製し、これを人民に強ゆ、顛倒もはなはだしきと言うべし」と教部省を批判した。この批判は真宗全体を動かして、かくして真宗四派は明治8年に大教院を離脱し、同年5月「大教院」制度は廃止された。
 1873・明治6年2月、政府は大政官の布告で「キリシタン禁止の高札」を撤去しキリスト教を解禁した。よく知られたように、明治4年に欧米視察に出かけた岩倉具視一行が、欧米の行く先々で、維新政府のキリシタン弾圧に対する諸国政府と国民の強い非難、抗議をあび、ベルギーのブラッセルでは、群衆は岩倉大使の馬車を取り囲んでキリシタンの解放を迫った。キリスト教禁止政策は外交上不利であると判断したためである。これは決してキリスト教が公認されたという意味ではなく、黙認されただけであった。
 教部省の政策には先の島地のほかにも、西周などからも批判が出てきた。
 森有礼(1847~89、明治18年初代文部大臣、明治22年2月「帝国憲法」発布の日、暴漢に刺され翌日死去)は英文論文「日本における宗教の自由」をアメリカ公使の時著して大政官三条実美に建白した(72・明治5年)、
 「人事に関して重要なるものの中、信仰の自由は最大緊切なるもの一なり。すべて文明諸国にありては、本心の自由特に信仰の自由はすでに人間天賦の権利としてこれを尊重するのみならず、万般の文明進歩における一大基本としてこれを尊重せらるるものなり。…神教と仏教との二個の相反目する宗教を同一管理の下に結合せんとするの[教部省の]政略も、その結果われらをして敬服せしむるに至らざりしなり。しこうして人民をしてその創起に係る宗教を奉ぜしめんとするの計画を非難するあるも過酷と云うべからず、けだしこのごとき計画は神聖なる本心の自由を軽視せるのみならず、これがために人の神霊を壊滅せんとするものなり。…成文律は充分に信仰の自由を保護せざるべからず。すなわち第一宗教に関しては、公然と《国法に触れざる限りは一切信仰のため充分の保護を与えること》。第二政府においては《すべて各の宗教に対し毫も偏頗なきこと》。第三宗教上の信仰および儀式の異なるより発生する紛擾に対しては、保護することなどこれなり。この事項を酌量して紙尾に『大日本帝国宗教自由信仰』草按を付す。…なお教育施設の性質および範囲について一言せん。すなわち教育に向って特別なる宗教上の勢力を存ぜしめられるべく、またその範囲は社会の種族、男女の区別なく学問を普及せしむるを目的とす。宗教の信仰は真に各個人の信仰に出て、毫も政治上の権力に屈伏するものにあらざるがゆえに、教育の施設上に宗教を入るるは国家が正当になすべき職掌に属せざること論なきのみ」そして先の「草按」では「政教分離」論を次のようにしるしている、
 「政府においては特殊の宗教に保護を与え、これがために生出したる不幸は、万国の経験上徴して歴々たるところにして、われらの目的はわが国民をしてこの不幸を免れしむるの目的に外ならざるなり。大日本帝国政府は、直接間接を間わず、自今その領国内において自由信仰を禁ずるの法律を施行すべからざること。またいかなる教派たりとも、その国の法律に抵触せざるかぎりは、地方庁あるいは政府の権をもって干渉すべからざること。…特種の宗派に地方あるいは国の官権をもって特権を与えざるべきこと。…」
 これは明治期において日本人キリスト者の書いた最初の論文であり、かつ信教の自由論としてもひときわすぐれている。論として深いポイントは、第一に、信教の自由は人間にとって「天賦の権利」とみなす点で、ルソーの「民約論」など西欧近代の基本的人権論、またそれを法的に定めたアメリカ「独立宣言」(1776)に基づいている。第二に、森の見解「国法に触れざるかぎりは信仰の保護を与える」は、帝国憲法の二八条の条項「臣民たるの義務にそむかざるかぎりにおいて」よりもはるかに欧米的進歩的だ。第三に政教分離の原則、政府が特定宗教のみに保護を与えることを戒めている点。これについては維新政府は神道のみに特権保護を加えてきたが、森はそれを間接的に批判したのだ。第四に、公教育における宗教(神道)教育の排除である。
 信教の自由の問題、森の「毫も政治上の権力に屈伏するものにあらざる」に関しては、75・明治8年11月、教部省は「信教の自由の口達」を発した。相手は、神仏の各官長であって、キリスト教は無視されていた。この「口達」は教部省によって、一元的に全宗教を管轄、支配しようとした政策の破綻であった。それのみならず、新しい宗教統制をめざすものであった。