建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

隠された行為 1 マタイ6:1~6

1996-26(1996/10/27)

隠された行為 1  マタイ6:1~6 

 1~6「人々によって注目されるために、あなたがたの義を人々の前で行なわないように、注意しなさい。そうでないと、あなたがたはあなたがたの天の父のもとで、いかなるほうびも受けられない。だからあなたが慈善行為をなす場合には、人々にほめられようと偽善者たちが会堂や通りで行なうのと同じように、自分の前でラッパを吹き回るな。アーメン 私はあなたがたに言う、彼らはすでにほうびを受けたのだ。しかしあなたが慈善行為をなす場合、あなたの右手がなすことを、あなたの左手に知らせてはならない。あなたの慈善行為が隠されたままでいるためである。そうすれば、隠されたことを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるであろう。
 またあなたが祈る場合、偽善者のようであってならない。彼らは人々に見られようとして、会堂や大通りの角に立って祈るからだ。アーメン、私はあなたがたに言う、彼らはすでにそのほうびを受けたのだ。しかしあなたが祈る場合、隠れたところにいますあなたの父に祈るために、あなたは自分の部屋に入って戸を閉めなさい。そうすれば、隠されたことを見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださるであろう」 。
 16~18「しかしあなたがたが断食する場合、陰気な顔つきの偽善者のようであってはならない。彼らは人々の前で断食している人だと見られるために、自分たちの顔つきをみすぼらしくするからである。アーメン、私はあなたがたに言う、彼らはすでに自分のほうびをえてしまったのだ。しかしあなたが断食する場合には、あなたの頭に香油をぬり、顔を洗いなさい。それは人々から断食している人だと見られないで、むしろ隠されたところにいますあなたの父から見ていただくためである。そして隠されたことを見ておられるあなたの父はあなたに報いてくだされるであろう」(この箇所、省略)。
 ここでは、施し(慈善行為)、祈り、断食について、完全に並行した内容が語られている。慈善行為、祈り、断食の「悪い例」が「人々に見られるためになされる時」、それはいつも「偽善者の行為」とみなされ、他方、それらの行為が「人々の目につかない」すなわち「人々の目から隠れたところでなされる時」には、その行為は即「隠されたことを見ておられる父なる神」のお目にかなう行為、すなわち「義」となる、とある。
 施し、慈善行為は、旧約聖書ユダヤ教でも勧告されている。しかし他者への慈善行為には、会堂や通りで多額の献金、寄付の行為を行い、自分の名誉や善い評判のためにのみなされる「歪んだ現象・偽善」が現われたようだ。献金の類と献金者の名が公表され、特に多額の献金者は特別の栄誉として会堂でラビたち並んだ席を与えられた。かくして真実の気持からではなく、「人々の称賛がお目当ての《偽善》の可能性」が起こる。「慈善行為をする人々は、神のために隣人への愛から慈善をなすのではなく、むしろ自分たちのためにそれをなすので、彼らは非難されている」(ルツの注解)。言い換えると信仰者の行為一般、また慈善行為にしても、どのような行為が「義」となるのか。その慈善を行なう人々が、自分のその行いを人々、人間によって是認され、称賛されるという仕方によって、そこに義なる行為が生まれるかどうかが、一つのポイントである。他の人間によって義と認められる仕方で、その人間の義の行為が生まれる時、その人間は今度は他者にどのように見られるか、評価されるか、称賛されるか、が自分の行為評価の基準になっていく。自分のために神の前で功績を立てようとする、いわば「行いによる義」という功績思考である。かくしてその人間は自分で義をつくることができることになる(ロマ3:28)。しかしながらこのような仕方をイエスは「偽善者の行為」と呼んでおられる。
 ここでは「隠されたことを見ておられる父なる神」(4、6、18節)という思想が登場している。それによれば、地上では人間の「義なる行為」は評価されない「ほうびは与えられない」。地上では義なる行為は「隠されている」から、そして人々の目にとまらず、評価算定の対象にならないからだ。むしろ地上では義人はしばしば苦難に遭遇する。義なる行為者が神から報いを与えられるのは「天において」あるいは「最後の審判においてだ」とある。「あなたの父はあなたに報いてくださるであろう」(4、6、18節)。地上では神の前で義なる行為でありつつ、同時に人々からも評価されるような行為「慈善行為」というものは、存在しない、とここではいわれている。したがって信仰共同体、弟子集団の集団的な行動も度外視されている。共同体的な行動は、一般に「目に見える」からだ。 ここにある「偽善者」というイエスの断定は、特定の集団のことではなく一般的な意味で言われている。強いていえば、パリサイ人や律法学者のことである(23章参照、シュワイツァーはサドカイ派のことだという)。
 3節の「右手のしていることを、左手には知らせるな」はよく知られたものだが、極めて強い表現である。自分のしている慈善行為を《自分では知らない》という意味である。「誰にしても、あなたの慈善を知る必要はない。その慈善行為は、最後の審判において隠された行為を明るみに出して、報いたり罰を与えたりなさる、神の前でのみ起こるといえる」(ルツ)。ここには《神が弟子たち(人間)の業に基づいて審判をくだされる》という最後の審判の思想がある。「かの日に神がキリスト・イエスをとおして人々の隠されれた事柄を裁かれる」(ロマ2:16)。その根拠となるのが先の「神は隠されたことを見ておられる」という考えである。ここでも《人々からは全く気づかれることも、称賛されることもない慈善行為》自分では自分の善行を知らないような善行、すなわち隠された慈善行為のみが、最後の審判の時に神によって報われる、と言われている。
 ポイントはその善行について《自分で気づかない点にある》。これについては25:37以下参照、「主よ、いつ私たちはあなたが空腹であるのを見て、食物を与えましたか」
 地上で人々から称賛される善行は、ただそれだけの理由で「天の父からのほうび・称賛」は期待できない「偽善者のもの」だと断定さている。ここの三つに共通しているのは「自分たちの義を、見てもらうために人々の前で行なわないように注意しなさい」である(1節)。「あなたは自分自身の善行を知つてはならない。もしそうでないならば、それは《あなたの善》であっても、《キリストの善》ではない。キリストの善、服従における善は、知ることなしになされる」(ボンヘツファー)。この見解は驚くほど厳しいものさしである。
 祈りについて。5節の「偽善者が人に見せようとして、会堂や通りの角に立って祈る」は明らかに祈りの本質からはずれている。祈りは本来神にのみ向けられるはずだからだ。祈りの場所は、会堂もあったが(共同の祈り、礼典的な祈り)むろんそこを聖なる場とは理解されていない。個人的な祈りは他のどの場所でもよかった。「自分の部屋に行って」は物置のことで、他の人の目にはふれない場所である。ここの「自分の部屋に入り、戸を閉めて」はイザヤ26:20に由来する。「わが民よ、行ってあなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。怒りの通り過ぎるまで、しばらく身を隠せ」。エレミアスは、イザヤの箇所と同様にイエスの弟子たちは破局が迫っているのを知つている、彼らの祈りは《患難の時の祈り》なのである、と解釈する。しかしここでは「祈りにおける神との出会いは、隠された場所、孤独、一人の状態に求められる必要がある。神は隠されたことを見ておられるからだ」(ザントの注解)のほうがよい。隠された場所においては「人目を気にしないで、全心でもって神に向う」ことがより可能だからだ。
 隠された祈りは人々の目から隠されるだけではない。祈りにおける隠蔽性とは祈りの中でキリストへの服従が起こるという意味である。人前での祈りにおいては、この服従が起こることがなく、祈りにおける自己変革、祈りにおいて自分が変えられ新たにされるということが生起しない。
「自分の祈りでもってどうにかして自分自身を貫こうとする私の意志は、死ななければならない、殺されなければならない。イエスの御心のみが私の中で支配し、私自身の意志がすべてイエスの御心の中で、イエスとの交わりの中で放棄される時、私の意志は死ぬ。その時、私は求めない先に私に必要なものをご存じでいたもうお方の御心が行なわれるようにという祈りを棒げることができる。その祈りがイエスの御心からくる時にのみ、私の祈りは確信に満ち、強く、潔い。その時の祈りはまた真に懇願でもある」(ボンヘツファー「随順」)。