建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

主の祈り 1  マタイ6:9~10

1996-28(1996/11/10)

主の祈り 1  マタイ6:9~10

 「だからあなたがたは次のように祈りなさい、
  天にいます私たちの父よ、あなたの名が聖とされますように。
  あなたの国がきますように。
  あなたの御意志が、天におけるように、地上でも行なわれますように」(ルツ訳)。

 よく知られているように、ルカ11:2~4が並行記事である。内容的には最初に神に関連して三つの嘆願。「あなたの名」「あなたの国」「あなたの御意志」。
 第一の祈りで神に対して「父よ」と呼かけけている。神を「父」という呼び方は旧約聖書には少しみられる、詩篇89:26「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩」、エレミヤ3:19「あなたが私を『わが父』と呼び、私に従って離れないと思っていた」。当時のユダヤ教にはごく少数であるが存在した。結論的には「父よ」(アラム語の「アッパ」)は、幼い子が肉親の父に対する信頼をこめた呼びかけであり、これはイエスに独自の言葉で、神に対するイエスの信頼を表現している。「イエスは小さい者たち(弟子たち)に自分にならってアッパ(父よ)を口にのぼらせる特権を与えられた。神の家族の一員として彼らは、神を父と呼び、その恵みを乞い願うことを許される」(エレミアス)。
 9節下段「あなたの名が聖とされますように」。協会訳は「あがめられますように」とあるが、大多数の訳は「聖とされる」(過去形の受け身形の命令形)。神の名が聖なるものとされるという表現は、旧約聖書ではエゼキエル36:22以下「あなたがたが諸国民の中で汚した、わが大いなる名の聖なることを私は示す」、39:7などでは、神の名が聖なることを示すのは神ご自身である。他方出エジ20:7、イザヤ29:23「彼らはわが名を聖とする」では人間である。ルターは「なるほど神のみ名はご自身によって聖なるものであるが、しかしそのみ名が私たちのもとで聖なるものとされるよう、私たちは祈る」と語った(「小教理問答書」)。
 ユダヤ教の「十八の祈り」にも 「あなたの名は聖である」(第三の祈り)とあり、カデシュ(アラム語の祈祷文)には「神の大いなる名がたたえられ、聖とされるように」とあった。神の名が聖とされるのは、終末時に神の自己顕現において神がその名を聖とされることを意味してはない。むしろ終末時においてではなく、歴史における今ここで神の名が聖なるものとして祈られること、を意味する。
 では「神の名が聖なるものとされる」とはどういう意味か。「神に栄光を帰すことは、人間が神の名、存在を承認することをとおして神が聖とされること」(ザント)、「神はご自身で充満した栄光を所有しておられるが、同じように《私たちの生活をとおして》神が栄光を与えられることをも命じておられる」(ルツ)。これはいい解釈だ。しかし、カデッシュは終末論的な祈りであって、この第一の祈りも新しい歴史の展開点、神の救いの時の到来との関連を示しているはずだ。例えば先のエゼキエル36章では「神がその名の聖なることを示す」は「私はあなたがたを諸国民の中から導き出してあなたの国に行かせる」(36:24)すなわちバビロニア捕囚からの解放、《神による救いの出来事》を意味していた。ここでも大いなる救いの時がすでに始まっていることと関連づけて解釈されるべきだ。具体的には、ゲッセマネゴルゴタでイエスによって示された《神への服従》を信仰者もまた見習って、イエスをとおして到来した神の国、神の支配を信仰者も受け入れ、信じること、しかも信仰者が神のみを神とした生活をする、神の恵みに心から感謝するようになること、これが「あなたのみ名が聖とされますように」の意味である。
 第二の祈り「あなたの国が来ますように」。「あなたの《国》」の「国・バシレイア」は英語ではkingdom・王国と訳され、ドイツ語ではHerrshaft・英語のdominion・支配・王的支配と訳される。先のカデシュにおいても「神がその王国を君たちの生きている時に、君たちの日々に、そしてイスラエルのすべての生涯の間に、すみやかに、また近い将来に、打ち立てられますように」とあった。また「十八の祈り」においてはローマ帝国の滅亡も祈られていた(第十二の祈り「《不遜な政府》が私たちの日に、すみやかに根こぎにされて滅亡しますように」)。
 第二の祈りとカデシュの祈りはどこが違うのか。イエスの宣教の出発点は周知のように「天国・神の国は近づいた」であった(4:17)。イエスの説いた「天国・神の国」すなわち神の王的支配とは、打ちひしがれた罪人、取税人、病人に神の慈悲がイエスの言葉と行為をとおして提示されたこと、であった。その意味で神の王的な支配はイエスの宣教と癒しにおいて《すでに到来した》(12:28「私が神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのだ」)。イエス神の国の到来を時間的に確定するとか(第一二の祈り「すみやかに、近い将来に」)、政治的民族主義的次元に踏み込むもの(ローマ帝国の滅亡)とは描いていない(ルツ)。カデシュの祈りとこの祈りとの相違はこうである「カデシュはまだひたすら待ち望んでいるだけの共同体の祈りであるが、主の祈りでは、神の恵みの業がすでに始まっていることを確認している人々が祈っている」(エレミアス)。「『あなたの国がきますように』と祈り求める者は、全権をもったイエスが自分の時代、自分の人生において現実のものとなる、ということである」(シュワイツァー「山上の説教」)。
 だとすれば「神の国がすでに到来したのに」どうしてなおもこの祈りで「あなたの国がきますように」と祈るのであろうか。確かに、悪霊の追放(12:28)、サタンの天からの落下の目撃(ルカ10:18)、イエスの罪人らとの食事(9:11)、イエスによる病気の癒し(4:23以下)において神の国・神の支配は到来した。他方、この神の国の到来した現在において、弟子たち、キリスト者を見舞うのは、迫害であり(5:10、)、飢え渇きであり(5:3、10:42、6:11)、誘惑であり(6:13)、人間的な弱さであり(26:43)、不信仰である(28章)。したがってこの祈りは《危機のなかにある》弟子たちの祈りともいえる(エレミアス)。イエスをとおして神の国・神の支配は到来したが、私たちキリスト者にとって、人間一般において、苦しみ、罪、迫害などの現実がいまだに存在しているのである。「それゆえに」弟子たちも、キリスト者も「あなたの国がきますように」と祈ることによって、それらの苦難と危機の克服されることを嘆願するのである。
 同時にこの祈りは、パウロがそうしたように「マラナタ」(「われらの主よ、きたりませ」第一コリ16:22)の祈りでもある。すなわち「主の再び来たり給うを待ち望む」祈りでもある。主の来臨においては次のことが実現する、黙示録21:3~4「神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐい取つてくださる。もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない」。
 第三の祈り「あなたの御意志が、天においてと同様に、この地上でも行なわれますように」。塚本虎二はこの第三の祈りが、主の祈りの基調であり中心であり、また絶頂であるという(「主の祈りの研究」)。この祈りはルカ伝にはしるされていない。この祈りはゲツセマネのイエスの祈りを想起させる(26:39)。
 神の意志が地上において行なわれるとは、信仰者が自分たちのための配慮からの祈り、その苦しみ悩み、迫害から解放され、罪の赦しなどが実現することだけを祈るのは十分でない、という意味である。「天にいます私の父の御意志を行う者が、天国・神の国に入るであろう」(マタイ7:21)とあって、神の御心を行うことは、信仰者自身の中で起らなくてはならない。私たち自身の人間的な惡い思いが克服されること、神への反抗の心が私自身において、私たちの信仰共同体において、社会の一部分において打ち破られること。ヨハネ7:17によれば「神の御心を行うこと」には、イエスの宣教が真理であることを確信すること、信仰認識も含まれる。塚本虎二はこう解釈する「神の意志が地上で行なわれるために必要ならば、私の生命、私の妻、子らを、しかり、私の信仰、救い自身を神に献げて、ただ聖意がなれかしと祈るほかない。自分を救おうとして神を信じる者が、神のためにその救いを捨てるのである。世にこれ以上の矛盾はなく、パラドックス・逆説はない。しかしここに神の知恵が隠されている」(前掲書)。これはすぐれた解釈だ。続。