建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

主の祈り 2 マタイ6:11~13

1006-30(1996/11/24)

主の祈り 2 マタイ6:11~13

 「明日のための私たちのパンを
  今日私たちに与えてください。
  そして私たちの負債を赦してください、
  私たちに負債のある者たちを私たちも赦しましたように。
  そして私たちを誘惑に引き入れることなく
  むしろ私たちを悪から守ってください」ルツ訳
 後半の祈りは、すべて信仰者、人間に関連したもの。
 11節の「明日のための・エピューシオス」は難解な用語として有名。ルカ11:3では「エピューシオスの(協会訳では「日々の」)私たちのパンを《日ごとに》与えてください」とある。この用語の第一の解釈は「なくてはならない」。蔵言30:8「なくてはならないパン」のへブル語(レヘム・フッキー)のギリシャ訳という立場である。最近ではザントがこの訳をつけ、グニルカ訳も「私たちの必要としている」。
 第二の解釈はこの用語を「来るべき日の、明日の」と訳す。行伝7:26などを根拠にする。だとすると、ルカの場合には「翌日のパンを毎日、毎日(日ごとに)与えてください」とあるから、すんなりとその意味もわかる。この祈り手は穏やかな暮らしをしているようだ。これに対して、ここでは「明日のためのパンを今日私たちに与えてください」となる(ヒェロニムス、シュニーヴィント、エレミアス、ルツ)。だとすれば、この祈りをする人の状況は、かなり厳しい。「この嘆願は、翌日のための食物が自明のものとして手もとにない、社会的に窮乏の状況のものである」すなわち、翌日仕事にありつけるかどうかわからない、日雇い人の状況が想定できる(ルツ)。従来ここは、神の国の宣教にたずさわるために貧しくなったイエスの弟子たちの状況を反映していると解釈されてきた。   しかしルカ10;4、7などによれば、弟子たちは「財布も袋も靴も持っていくな」と命じられ、食物については「同じ家に留まっていて、その家の人が出してくれるものを食べなさい。働き人が報酬を得るのは当然だから」とされる。イエスの弟子たちは、何かもっていく必要も、翌日のための携帯食料も必要なかった。むしろその家の客への好意によって生きていたからだ。むろん彼らも翌日のための食物のために祈りをしたであろうが、その祈りは彼らの置かれた状況だけから生まれたものとみることはできない。イエスの教えられた祈りを単に弟子たちの祈りと同一視することはできない(ルツ)。
 第三に、ここでの「パン」を単に「地上の食物」としてばかりでなく、「生命のパン」「天からのパン」「神のパン」(ヨハネ6:32以下)であるとみる解釈。「明日のパンとは生活の最小限必要としての物質的パンではなく、生命のパンである。このようにパンの祈願を終末論的に理解するのは、紀元はじめの数世紀の間に束方教会でも西方教会でも支配的となった。主の祈りでは他の祈願もすべて終末論的な指向をもっていることも、イエスが主の祈りを終末時のパン、すなわち生命のパンを求める祈りと解していたことを裏づける。…弟子たちは今すでにここにおいて、すなわち今日という日において、いかにこの世の生活が悲惨であろうと、そのただ中で生命のパンを与えられるように神に祈る」(エレミアス)。
 第五の祈り。「私たちの負債・オフェイレイマタ」については、ルカ11:4ではここは「罪・ハマルティア」となっている。意味は同じ。
 ここで重要なのは、前半「私たちの負債を赦してください」との神への祈りと後半「私たちに負債のある者を私たちが赦しましたように」との信仰者による罪の赦しの行為との関連である。ルカでは後半は「私たちが赦したのですから」との理由づけととれる。マタイでは範例ととれる「赦しましたように」。ただ「赦す」という用語は不定過去形となっているから、その赦しは過去の事柄(の強調)であり、祈り手は過去における自分たちの赦しを想起していることになる(エレミアス)。神への祈りと信仰者による他者の赦しの関係は、例えば、マルコ11:25にはこうある「あなたがたが立って祈っている時に、誰かに恨みがあったら、赦してやりなさい。それは天の父からもあなたがたの過ちをゆるしていただくためである」。ここでは信仰者による赦しと神への祈りが堅く結びつけられている。イエスは父、神による赦しは、信仰者による他者の赦しと緊密に結びついているのであって、他者への赦しをぬきにした、神への祈り、神に自分たちの赦しを求めることは偽りとなると考えておられる。マタイのここでも同じで、神の赦しをかつて受けた者は、その赦しを他の人にも与えなけば「ならない」し、かつ神からの赦しは他者の赦しを予想しそれを決意し、それを宣言することである。ここでは神の赦しを嘆願することは、他者の赦しの「前提条件」とされている。他者への赦しの行為、決意のないような神の赦しの祈りは存在しえない。イエスによる神の支配の到来に与る者は、その支配の恵みを他者にも分かちあたなくてはならない、と言われているのだ。
 このポイントは重要である。この第五の祈りにおいては「個人の罪の赦し」という考えは、否定され排除されている。私の罪の赦しは、私に罪を犯し、悪意をいだく人々の赦しをも包括している、また包括したものでなくてはならない。神の前で自分だけいい子になるというか、誰かを恨みつつ、敵意をいだきつつ、頑強に被害者面のままで、神の前に祈り、自らの罪の赦しを嘆願する行為は、青白い顔の「宗教」の姿をイメージする。それに対して、自己の罪の赦しの嘆願が他者の罪を自分たちだけは赦す決意をもってなされるならば、そこにはある種の人間関係における渦巻きのようなものが起きている感じがあって、そこには「青白い顔」ではなく「ほほ笑み」の表情のイメージがわく。これは何らかの社会的、歴史的形成の力となるにちがいない。イエスによって到来した神の国の一つの内容は、差別や偏見、排除の力にくさびを打ち込んだが、その内容の一つは、このようなものであったと思われる。
 第六の祈り。「私たちを誘惑に引き入れないで、むしろ私たちを悪から守ってください」「誘惑・ペイラスモス」は、塚本訳「試み」。他はほとんど「誘惑」。英語のtesting(ドイツ語のErprobung)は、temptation(ドイツ語のVersuchung)ほど強い意味はないので、「試み」と「誘惑」とではやはり意味内容が違う。「誘惑」の背後には「悪」の力が働いているから。「試み」においては、信仰者は苦しみを経験するが、信仰の危機にまでは至らない。しかし「誘惑」においては、信仰者は神からも引き離されることもある。この「誘惑」の意味については「日常の誘惑ではなく、終末時の大いなる患難」と解釈する人がいる(エレミアス)。この解釈に反対する人々は「誘惑」という用語の前に冠詞がなく、ある特定の誘惑に限定する意味をもっていないという(シュワイツアー、ルツ)。具体的には「苦境」「苦難」を指している。 さらには後半の「惡」は「病気、苦境、悪しき人間、悪しき衝動」などを意味する。「引きいれる」は、「神が」人々を誘惑に引きいれる、というのではなく、むしろ「誘惑に屈するこののないように」という意味である。
 信仰者は、すでに神の国、救いに招かれているとはいえ、「いまだ」多くの「誘惑」や「惡」人間存在を脅かすものに支配されている。「あなたがたはこの世においては苦しみがある」と言われたとおりである(ヨハネ16:33)。人間的な苦しみ、病気、老い、貧しさ、無意味、自らの罪ばかりではなく、信仰的な苦悩もある。「神がわからなくなるという苦難」も依然として存在する。それゆえ信仰者はこの祈りを心から唱えざるをえない。ペテロのイエス否認を想起しながらである。しかも、この祈りを唱えるごとに、弟子たち、信仰者たちは、神が私たちを守り、支えておられるのを確信するようになる。たとえ今は確信できなくとも、確信するようになることを嘆願できるようになる。
 今日の「主の祈り」には、最後にドクソロジー・主の讃美「国と力と栄えとは、汝のものなればなり」が付加されている。この賛美はすでに「十二使徒の教え」(後90年頃)には唱えられていたというから、随分古くからのものである。
 「キリストの力において弟子たちは救われて永遠の生命を受ける。国と力と栄えとは、父との交わりにおいて永遠にキリストのものである。そのことを弟子たちは確かに信じているのである」(ボンヘツファー「随順」)。