建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、希望について 1  ロマ8:18~21

希望について 1  ロマ8:18~21 

 「私は主張するが、現在の時点の苦しみは、私たちに現されるはずの、目前にある栄光に比べると、重いものではない。というのは被造物は渇望的な待ち焦れをもって神の子らの出現を待っているからである。というのは被造物が虚無に屈伏させられているのは、自分の意志によるのではなく、むしろ彼らを屈伏させたお方によるからである。《そこに希望がある》。というのは彼ら被造物は、死滅性の隷属状態から解放されて神の子らの栄光の自由の中へと入れられたからである」。
 18節からテーマが変わる。終末時のテーマでである。
 「やがて私たちに明らかにされるべき目前の栄光」(18節)。パウロはここで後期ユダヤ教の黙示文学の伝統・伝承をふまえているようである。
 「現在の時の苦難」(18節)は、第一に、終末時の救いの時「被造物は死滅性の隷属から解放されて」(21節)の開始の前には、必然的に起きる、とユダヤ教の黙示文学で言われている、ヴィルケンス。これだけでは黙示文学と変わりがなくなってしまう。しかし第二に、パウロはこれまで幾度か新しい救いの時の到来「今や」を繰り返してきた。3:21「しかし今や神の義が啓示された」、7:6、8:1「今やキリスト・イエスにある者たちは…」。第二コリ6:2。すなわち、黙示文学の見解とは異なって「現在の時」は、キリストの十字架と復活という救済史的な新しい転回点に規定されている。
 そして黙示文学が語る終末時をひかえて義人が遭遇する「苦難というテーマ」はキリスト者たちにとっても自明のこことされている。しかしながら、パウロにとって眼目は「キリスト者らに明らかにされるべき目前の栄光」のほうであって、それに比べると「現在の時の苦難は重さをもたない」という、18節。第二コリ4:16~18においては、引用「現在の軽い苦しみは、はかり知れない重さの永遠の栄光を私たちに備える」(4:17節)とあって、「現在の軽い苦しみ」はやがて訪れる「永遠の栄光」の道備えにすぎないとされている。
 19節。ここには希望の用語群が登場する。「被造物の《渇望的な待ちこがれ・アポカラドキア》」は、「切なる思い」(協会訳)「切望して」(松木訳)よりも切追感が強い。ピリピ1:20「私の渇望的な待ち焦れと希望」。ケーゼマン、ヴィルケンスがこの訳。「神の子らの《出現・アポカルプシス》」はそれまで隠されいた事柄が神によって開示・黙示・啓示されることで、黙示文学の用語。黙示文学の表象では、終りの出来事が開始される折りには、メシア(人の子)と彼に選ばれた義人らが出現するという、エチオピア・エノク69:26、第四エズラ7:26以下など。これに対してパウロはここで「神の子らの出現」をいう。「神の子らの出現」とは、メシア、御子として復活させられたお方と共に、彼ら・神の子らも栄光の姿で出現するということ。「待っている・待望する・アペクデコマイ」は典型的な希望の用語。被造物全体の緊張したてひたすらな待望をいう。「神の子ら」はすでに洗礼をとおして神の子らとされたが、それゆにメシア到来と共にメシアと共に神の子らとして「共に栄化される」ことを「待ち望む」。
 20節。「被造物が虚無に屈伏させられた」の「屈伏させられた」は身受け身形で主語は神である。「自分たちの意志によるのではなく、むしろ彼らを屈伏させたお方によってである」とあるとおりである。「被造物が虚無に屈伏させられた」は内容的にはいまひとつはっきりしない。創世3:15以下の、神によるアダム、エヴァへの呪いをパウロは想定したようだ、ヴィルケンス。ユダヤ教の第四エズラ7:11以下「アダムが私の戒めを犯した時、被造物は裁かれたのだ。それでこのアイオーン・世における道は、狭く、悲しく、労苦の多いものとなった」。これだと、人類はアダムの堕落、戒めを破ったその罪を引きずる存在ということになる。少なくとも神の存在は影がうすくなる。むしろ《虚無への屈伏》は、1:21以下の、神と人間との関わりの転倒のポイントから解釈されよう、人間が神の代わりに偶像礼拝を導入した時(1:25「彼らは創造者の代わりに被造物を拝みそれに仕えた」)、被造物は虚無に陥ったと、すなわち、性的堕落、不義、悪意、争いや讒言をなす者となった(1:26以下)。
 パウロはこの「虚無への屈伏」はなおも積極的な側面をもつとみる。「そこに希望がある」。この「希望」は被造物のそれである。被造物の救いの約束がその外面的な滅び、虚無への屈伏と結合されているからだ。この「希望」についてバルトは解釈している、
 「宇宙の虚無性をその根源において把握せしめ、それを創造者に対する被造物の不可視的な離反と解せられるあの場所、そこにはまた希望も存する。それはキリストの十字架と復活によって創造者と被造物との不可視的な合一再建されたということにかけられた希望である。完全な隷属の認識は同時にまた自由の認識である。死滅性に対する恐怖は同時にまた不滅性の希望である」。
 21節。「といのは被造物は死滅性の隷属から解放されて(未来形)、神の子らの栄光の自由へと入れられる(未来形)からだ」。ここでは20節の「虚無・マタイオテース」に加えて「死滅性・フトラ」が出てくる。自然も人間も全被造物がこの虚無と死滅性の隷属のもとにある。しかも虚無と死滅性の隷属のもとに置いたのは神ご自身である、20節。ところが、被造物は「やがて」このような死滅性から将来解放されるという、未来の受け身形。神はキリスト者にとどまらず、全被造物を「神の子らの栄光の自由の中に導かれるであろう」。この栄光は神が復活のキリストを御子として受け入れられたところの「神の栄光」である。この栄光の授与は「終末時」においてである。神は一方で被造物を虚無に屈伏させられたばかりでなく、他方で、同時にその虚無と死滅性の克服をも実現されるという。
 パウロの終末論「目前にある栄光」つまり切迫した終りの時の到来、被造物の死滅性からの解放と栄光の自由の到来。このテーマは、パウロと後の諸教会、マルコ、マタイ、ルカとの大きな相違点である。パウロはキリストの来臨、再臨にまで生き残ると考えていたが、第一テサ4:15以下。マタイやルカの教会はその時、キリストの再臨がいつくるかわからないと考えていて、すなわち「終末の遅延」が前提とされ、パウロの緊迫した時間意識が消滅した。これは現代のキリスト者においても同様である。それに代わって、マタイやルカの終末論は、切迫したキリストの再臨ではなく、やがて実現するキリストの再臨として現代のキリスト者に受け入れられた。言い換えると「信仰義認」の点では、現代の教会はパウロの立場に立つが、終末論については、マタイ、ルカの線に立つといえる。終末論の点でパウロの立場をどのようにして受け入れるか、これは現代のキリスト者の大きなテーマである。