建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、神の選び2 イスラエルのつまずき ロマ9:25~33

1997-39(1997/9/28)

神の恵みの選び2 イスラエルのつまずき  ロマ9:25~33

 「神はまたホセア書において言われた、『私はわが民でない民を、わが民と呼び、また愛されなかった者たちを愛された者たちを呼ぶであろう。あなたがたはわが民ではない、と彼らに言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれるであろう』。
 またイザヤはイスラエルについて叫んでいる、
 『たとえイスラエルの子らの数が海の砂のようであったとしても、残りの者のみが救われるであろう。すなわち主は御言葉を成就しつつ短縮しつつ地上で創造される』。
 イザヤがこう預言したようにである、
 『万軍の主が残りの子孫を残されなかったとしたら、私たちはソドムのよつに、またゴモラと同じようになったであろう』。
 では私たちは何というべきなのだろうか。義を生み出さなかった異邦人が義に、しかも信仰に基づく義に到達した。しかし義の律法を生み出したイスラエルは、その義に到達しなかった。なぜか。イスラエルが信仰に基づいてでなく、むしろ業もとづいてそれに到達しようと意図したからだ。彼らは『つまずきの石』につまずいたのだ。
 『見よ、私はシオンに一つのつまずきの石、さまたげの岩を置く。そしてそれに依り頼む者は恥をかかされない』」。
 ホセアの引用において前者は2:23から、後者が1:10からのもの。ホセア書では「わが民でない者」とはヤハウェを捨てて「バール・他の神々への崇拝」に走った(3:1)イスラエルの民、しいては妻ゴメルがホセア以外の男によって産んだ子を意味していた。
 パウロにおいては「わが民でない者をわが民と呼び、愛されなかった者を愛される者と呼ぶ」は、《神による異邦人の召し》の意味に転調されている。
 次にイザヤ書から引用は、イザヤ10:22からのもので、「イスラエルから出た者すべてが、イスラエルなのではない」(ロマ9:6)をふまえて、イスラエル全体が救いに選ばれているのではなく、「残された者のみが救われる」。「残された者」とは戦乱のなかを生き延びた者という意味で、政治的・軍事的力に依り頼むのでなく、ただひたすらヤハウエの救済の出来事を待ち望む者のみが救われる、そこでは、律法に実践に左右されずに、である。
 30節以下でパウロイスラエルの歴史における「大いなる謎」に一つの回答を与えている。歴史の「現時点」において、大いなる逆説が成立したと。神はご自分の民ではない異邦人をご自分の民とお召しになり、他方、イスラエルの内でも、終りの救いに与れるのは「残りの集団」のみである。神は異邦人を受け入れられ、イスラエルを救いから締め出された、言い換えると、ここでは「イスラエルのつまづき」が起きている。
 なぜこのようなことが起きたのか。義の獲得をめぐる競技において、イスラエルはゴールに到達しなかった。むしろゴール・義に到達したのは、異邦人であった。異邦人は律法をもっていなかった。イスラエルが律法をもっていて、救われる手段として律法の成就をめざした。救いが「業に基づいて与えられる」のならは、イスラエルは義に到達したことであろう、しかしながら、救い・ゴールが「律法に基づいてではなく、むしろ信仰に基づいて到達される」場合(32節)、イスラエルはその競技自体において、はじめから自滅する定めにあった。救いはキリストへの信仰において実現する。それを律法の所有、選ばれた民として誇りに基づいて、すなわち律法の実践において救いに到達しようとしたイスラエルは、必然的に、キリストへの信仰、むしろキリストご自身につまづいた。イスラエルは「律法なしの救い」「キリストへの信仰による義」「キリストご自身」という「つまづきの石、さまたげの岩」につまづいた。神がイスラエルがその中心、シオンに顕現されるとイスラエルに約束された、そのシオンに神は「つまづきの石」を置かれた。
 32節の「つまづきの石につまづいた」は、イザヤ8:14「主はイスラエルの二つの家には、聖所となり、またさまたげの石、つまづきの岩となる」をふまえて、イスラエルが「つまづきの岩なる主につまづいた」とパウロはいう。原始教会においてすでにこの「つまづきの石」についてメシア的な解釈が成立していたようだ。第一ペテロ2:6~8。すなわちこの石は「キリスト」と解釈された。
 33節の引用は、イザヤ28:16のもの。70人訳。「見よ、私はシオンに《さまたげの石、つまづきの岩》を置く。そしてこれに依り頼む者は決して」恥をかかされることはないであろう」。ここでも「つまづきの石」はメシア、すなわちキリストを指している。
 「つまづきの石」はイザヤにおいては《神のイスラエルに対する救済意志、シオンへの恵み》を示すもので、本来両義性をもっていた。それはのがれの場であると同時につまづかせるもの、肯定と否定を意味した。この「石」を王的存在とみるメシア的解釈は、すでにユダヤ教において起きてきたが、原始教会もそれを受け継いだ。パウロもその立場に立って、ユダヤ教当局やユダヤ人一般が、キリストの活動を拒絶し、さらには使徒たちの福音を拒絶したユダヤ人の態度を、イザヤのテキストに照らして、「つまづきの石につまづいた」と解釈したのだ。このユダヤ人のつまづきにおいて、彼らの「かたくな」(9:18)「神の義ではなく、むしろ自分の義をたてる試み」(10:2)がよりクリアーになるばかりでなく、異邦人キリスト者の立場が、がっしりと基礎づけられる。それが33節後半の引用「これに依り頼む者は決して恥をかかされることがないであろう」である。
 「つまづき」というのは重たいテーマである。「つまづき」は宗教、信仰のテーマの神秘を保持しつづけるものであって、決して解明しつくされないものである。「つまづき」によって信仰は守られるのだ。理論的に解明しつくされるものは信仰の対象となりえないものだ。ユダヤ人の「つまづき」の中心は、イエスにあった、イエスの御子性にあった。一人の人間が「神である」ことへのつまづきである。
 他方キリスト者のつまづきは、イエス人間性にある。神がなぜ人間であるか、これがキリスト者のつまづきの中心である、キルケゴール
 キリスト者の行動もまた他のキリスト者のつまづきになりうる。
 私がこの「つまずき」で共鳴したのは、辻宣道氏のつまづき体験である。国家による弾圧によって獄に入れられ、獄中で病死した父・啓蔵牧師の亡骸をみて、一四才の宣道氏は考えた、神のために生涯、苦労して働いてきたこの人を神はどうしてこのようなみじめな死に逐いやったのか、神が存在するなら、どうして神のために働く人にこのような運命を神はくだされたのか。この少年期のつまづきからはいあがって、宣道氏は牧師になり、父の死の真相を暴いた。これが辻氏のつまづきからの起き上がりであった。