建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、二つのオリーブ 異邦人キリスト者への勧告 ロマ11:16~24

1997-44(1997/11/2)

二つのオリーブ  異邦人キリスト者への勧告  ロマ11:16~24 

 「しかしもし初穂のものが清ければ、その粉全体も清く、もし根が清ければ、その枝も清い。しかしもし《枝のなん本》かが切り払われて、《野性のオリーブ》である、あなたがその枝に《接木》されて、オリーブの油の豊かな根を共有するならは、あなたはそれを誇ってはならない。しかしあなたが誇ったとしても、あなたが根を支えているのではなく、むしろ根があなたを支えているのだ。
 そこであなたは言うであろう、枝が切り払われたのは、それによって私が接木されるためであったと。その通り。不信仰によって彼らは切り払われ、あなたは信仰によってその境遇を得た。高慢になってはならない。むしろ神をおそれなさい。というのは神が《もともとの枝》でさえ容赦しなかったとすれば、神はあなたをも容赦なさらないからだ。《神の慈しみと容赦のなさ》を見よ。倒れたものには神の容赦のなさが、しかしもしあなたが神の慈しみにとどまるならば、あなたには慈しみが与えられる。そうでないならば、あなたは切り払われるであろう。
 しかし、かの人々が不信仰にとどまることがないならは、彼らは再び接木されるであろう。というのは神は彼らを再び接木する力を持っておられるからだ。もしあなたが、もとの野性のオリーブから切り払われて、本性に反して、《優れた品質のオリーブの木》に接木されているとすれば、ましてこの本性からして優れた品種のオリーブの枝は、どれほどに再び自分のオリーブの木に接木されることであろうか」ヴィルケンス訳。
 17節の「オリーブの木」のたとえは、エレミヤ11:16「主はあなたをかって『良い実のなる美しい青いオリーブの木』と呼はれた…」をふまえている。エレミヤではイスラエルは「神のオリーブの木」であるとされ、特にその「根」はアブラハム、族長を意味している。このオリーブの木のたとえにおいて「接木」の比喩がでてくる。「もし枝の何本かが切り払われて、《野性のオリーブであるあなた》が、その枝に接木されて、オリーブの油の豊かな根を共有することになる…」17節。明らかに「優れた品質のオリーブ」(24節)「枝の何本かが切り払われ」(17節は)、つまづいたイスラエルユダヤ人を、「野性のオリーブの木」は異邦人キリスト者(12、15節)を指している。注意深くみると接木された野性のオリーブは切り払われない枝と「その根を共有する」とある。パウロは異邦入キリスト者と「根を共有するユダヤキリスト者の存在・教会」を前提としている。
 パウロはかつてユダヤキリスト者に向って、ユダヤ人であることを「誇ってはならない」と警告したが、2:17以下、ここではこの救済史の逆説、ユダヤ人が神に棄却されて、異邦人が神に受け人れられたとの逆説の中で、異邦人キリスト者に対して「あなたはそれを、根に接木されたことを誇ってはならない」と勧告、警告する。その理由としてパウロは言う「異邦人キリスト者が根を支えているのではなく、逆に根が破を支えているから」すなわち、接木を実現されたのは神であり、「異邦人の選び」も神によるからだと。
 神の選びと棄却の結果をみて、「何本かの枝が切り払われたのは・ユダヤ人が神から捨てられたのは、私が接木されるためであった・異邦人キリスト者の選びが実現されるためであった」という「異邦人キリスト者の自己自慢」19節は、理屈の上では、パウロも肯定すざるをえない「確かに・そのとおりである」20節前半。
 しかしポイントは「どのようにして自分が救いの境遇を与えられているか」、救済更の逆説がどのようにして起きたかにあると、パウロは指摘する。「不信仰によって彼らは切り払われ、信仰によってあなたはその境遇を得た」すなわち、「信仰によって義とされ、キリストをとおして神との平和を得た」(5:1)と。言い換えると、救いの境遇にあるのは、自分のなした成果や業績によるのではない。「したがって異邦人キリスト者ユダヤ人がつまづき、倒れたことを誇ってはならない、むしろ神を恐れよ」20節。そしてこう付け加えている。つまづき、倒れたユダヤ人の姿は決して他人ごとではない。「神がもとの枝・選びのユダヤ人でさえ容赦なされなかったとすれば、あなた・選ばれた異邦人キリスト者をも容赦なされないであろうからだ」21節。
 22節前半「見よ、神の慈しみと容赦のなさを」について。特に容赦のなさ・アポトミア」は新約ではここだけ、訳語としては「峻厳」(協会訳、松木訳)「きびしさ」(前田訳)、ケーゼマン、ヴィルケンス訳は「きびしさ、苛酷さ、容赦のなさ」。ここでは21節の、神がユダヤ人を「容赦しなかった」と関連づけるべきで、原語も「審判の厳しさを意味する」という(ケーゼマンの注解)。したがって訳語は「容赦のなさ」がよい。しかしながら、内容的に《神がきびしいお方、苛酷なお方で、容赦されないお方である点》はなじみが薄い。そのような神把握は《旧約聖書的》に映るからだ。どうもプロテスタントの《神理解》は、神の「慈しみの深さ」のみを一面的に強調しすぎて、神の恵みのもう一つのこの側面「容赦のなさ」を見逃してきた感がある。そこでは「神の慈しみ」は生前のイエス・キリストの「やさしさ」(罪人との会食、病人のいやし、幼児を招かれる姿)をダブらされて「神の審判を欠落した信仰理解・信仰形態」が生まれる。また日本のキリスト者には遠藤周作の評論「父の宗教、母の宗教」のポイントが妥当する面がある。そのポイントとは日本人、日本のキリスト者は、人間の罪や過ちに対して「厳しく審く」伝統的なキリスト教の神理解「父の宗教」を「嫌い」、人間が何をしようとも「やさしく包んでくれる」神理解「母の宗教」に共鳴するというもの。
 旧約聖書をみると「神の慈しみ」は「背く者への愛」として語られたが(特にホセア)その愛は「背きをいやす」愛であって、「神の容赦のなさ」は欠落せずに前提とされ、神が《その審判を撤回される愛》として語られる。ホセア14:4「私は彼らの背きをいやし、喜んで彼らを愛する。《私の怒り》がかれらを去ったからだ」。ここでも「神の慈しみ・愛と容赦のなさ」は相即している。パウロが展開したのは、神のこの両側面、ユダヤ人の棄却と異邦人への新たな招き、そのからみが救済史においてどのような形をとったかである。パウロはこの「神の慈しみと容赦のなさ」を恵みの二つの面・様相と見ている。
 神の容赦のなさは倒れたユダヤ人に向けられ、その慈しみは異邦人キリスト者・あなたに向けられる。彼らがその慈しみにとどまるならば、22節中段、後段。神によって切り払われたユダヤ人の「運命」、これは異邦人キリスト者にとっては「教訓」であり「警告的事例」でありつづける。しかも「神の容赦のなさ」は決して神の最後の決定ではないという。ユダヤ人は再び神に受け入れられる、23、24節