建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、ユダヤ人の救い2  ロマ11:28~32

1997-46((1997/11/16)

ユダヤ人の救い2  ロマ11:28~32

 「福音に関連しては、彼ら(イスラエル)はあなたがたのゆえに、神の敵となり、また選びに関連しては、彼らは父祖たちのゆえに神に愛された者となった。すなわち神の恵みの表明も神の招きも取り消せないのだ。かつてはあなたがたがどれほど神に不服従であったとしても、今では、彼らの不服従によって、あなたがたは神の憐れみを体験した。そのように、彼らも今ではあなたがたに与えられた憐れみのために、神に不服従にされたが、それは彼らもまた憐れみを経験するためである。すなわち神はすべての人を不服従の虜に封じ込めたもうたが、それは彼らすべてが憐れみを受けるためであった。
 ああ神の豊かさ、知恵と知識の何と深いことか。
 神の審判の何ときわめがたく、
 その道ははかりがたいことか。
 というのは『誰が主の思いを知つていたのか。
 誰が主の助言者に任じられたのか。(イザヤ40:13)
 誰が主に前もって差し出して、
 それにふさわしいお返しを受けたのか』
 すべては彼から出て、彼をとおして、彼に向けて存在する。
 栄光が永久に彼にあれ、 アーメン」
 28節。福音に関連していえば、ユダヤ人は《神の敵》とされた、それは「異邦人のため」であった。すなわち、ユダヤ人がっまづき倒れたことをとおして、異邦人に救いへの道が開かれた、とパウロはいう。しかしそればかりではない。ユダヤ人は《もう一つの線で》神と結合している。それがユダヤ人が《神に選ばれた民》である点である。「選びに関連してはユダヤ人は父祖たちのゆえに《神に愛された者たち》である」28節後半。
 パウロによれば、福音はユダヤ人のつまづき、つまりキリストへの拒絶をもって、異邦人にもたらされたのだが、ユダヤ人は「神の敵」になったにもかかわらず、いまなお「神に愛された者たち」でありつづけている。それは現在のユダヤ人のゆえではなく「父祖たちのゆえ」である。父祖たちの選びはすでに信仰義認の性格をもっていた、4:1以下。神の恵みは不信仰による拒絶を廃棄させ、ユダヤ人の転倒の運命に逆らって、その選びを現時点で実現する力をもっている。この箇所の、ユダヤ人がどのような紆余曲折の運命をたどろうとも、アブラハムへの祝福、選びがいまなお生きている、「ユダヤ人は神に愛された者たちであり続けている」とパウロの見解は、注目すべきである。それに比べて欧米の 「キリスト教国」では根づよい差別が生き続けたのは、明らかに反パウロ的である。
 29節。神はご自分がなされた選びの行動を後になって「後悔される」ことはない、サムエル上15:29。「神の招き」は明らかに「異邦人への新たな救いの招き」の意味である。この招きは今や目に見える形となって、異邦人伝道、異邦人のキリスト者の存在とその教会の存在として実現した。この現実は「取り消せない」。それと同様にそれ以上にイスラエルユダヤ人への「神の恵みの表明」は(原語ではここは「恵みの賜物」、10:8の「信仰の言葉」を意味し、ユダヤ人と異邦人への「神の恵みの表明」。この恵みの表明をも神は決して「後悔されることがない」「取り消すこともない」。その恵みが異邦人にとって確実であればあるほど、過去、歴史における父祖たちをとおしてイスラエルに賜った選び・祝福もまた確実で「イスラエルのつまづきによっても、イスラエルを棄却された後にも《決して取り消されない》」とパウロは主張する。
 30~32節。ここでは《かつて、今、やがて》がユダヤ人と異邦人とに、神への不服従の時、神の憐れみの時、に関連して展開される。《かって異邦人》は《神に不服従であった》。同じように《現在・今ユダヤ人》が《神に不服従である》。《神の憐れみ》が《今や》この《異邦人からその不服従》を引き離し・救い出した。これと同じことを神は《今》不服従に陥っているユダヤ人になそうとされている、すなわち神の憐れみはユダヤ人をその不服従から引き離し・救い出そうとされている。異邦人とユダヤ人との歴史は、現在の時点で互いに交叉し、また各々の不服従と神の憐れみとは鋭く、対時している。「神の隣れみを体験する」(30、31節)とは、この不服従、罪、神への敵対という望みなき状態から救い出されることを意味する。そしてこの憐れみ(と義)はキリストの死と復活、贖いにおいて提示されたが、このキリストの贖いによって克服されないような人間の側の「不服従」というもの、神の愛に対峙しうるような「不服従」というものは、存在しえない、というのがパウロの信じて疑わない見解、確信である。《今》は不服従であるユダヤ人もまた、異邦人同様に、《やがて神の憐れみを受ける》。
 パウロは、ネガティブ・否定的なものをとおして、その否定的なものを肯定的なものを引っ繰り返す神の意図・摂理を提示している。32節。「神への不従順に神が人を封じ込められたのは、神の憐れみを受けるためであった」。そしてここでもユダヤ人は「神の憐れみを受ける」と約束されている。なるほど、神の救いの摂理のもとで、ユダヤ人の不服従は、異邦人の救いに役立つものとなったが、その神の救いに基づいて、今度は神の憐れみは(これは異邦人に示されたものであったが)不服従ユダヤ人にも与えられることとなった。そしてこの憐れみは、ユダヤ人の不服従、つまづきを彼等から引き離し、それを癒す。神なき者である異邦人を義とするのは、十字架につけられたキリストであるが、不服従ユダヤ人を信仰によって義とするのも、彼らがつまづいた十字架のキリストである。第一コリント1:24。