建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

東万の博士たち  マタイ2:1~12

1997-50(1997/12/14)

東万の博士たち  マタイ2:1~12

 「さてイエスがへロデ王の時期にユダのべツレヘムにお生れになった時、見よ、博士たちが東方からエルサレムにやって来た。そして言った、『新たに生まれたユダヤ人の王はどこにおられますか。私たちはその星の上昇するのを見て、その王を拝みにきました』。しかしへロデ王はこれを聞いて狼狽してしまった。王と共にエルサレムの住人全体も。そして王は、民の祭司長たち律法学者たちすべてを集めて、メシアがどこに生まれるかを彼らから知りたいと欲した。彼らは王に言った、『ユダのべツレヘムにです。預言者たちによってこうしるされています。              
 《そして、おまえ、ユダの地、ベツレヘムよ。
  おまえはユダの君候たちのうちで、決して最も小さいものではない。
  おまえから、わが民イスラエルを牧する、一人の指導者が出るからだ》』。
 ヘロデは密かに博士たちをそば近く呼び寄せて、その星の出現の時期を精確に彼らから知り、彼らをべツレヘムに遣わして言った、『行って、その幼児について精確に調べて、あなたがたがその子を見つけ出したら、私に報告しなさい。私も行って拝みたいから』。彼らはこのことを王から聞いた後、出発した。すると見よ、彼らがその上昇を見た星が彼らを先導し、そして幼児がいる場所の上で止まった。彼らはその星を見た時大きな喜びを激しく感じた。そして彼らがその家に入ると、その幼児が母マリアと一緒にいるのを見た。そして彼らは膝まづいて彼を拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げた。そして夢で神のお告げを受けたので、ヘロデのもとにもどらず、別の道を通って、自分たちの国へ帰っていった」。
 二種類の王、エルサレムにいる暴君的な王へロデとべツレヘムにいる幼児である真の王の対比は明確である。ヘロデはいわゆる大王で在位は前37-4年。前40年にローマ皇帝アウグストゥスにより王に任命され、サマリアガリラヤを征服し、さらにエルサレムをも陥落させて王として君臨した。その政策は皇帝礼拝の神殿を建てたりエルサレムにアントニアの砦、劇場をつくるなど親ローマ的で、エルサレムエルサレム神殿の再建に着手し、港の町カイザリアを造り「皇帝の町」と名づけた。前4年に70才で死んだという(マタイ2:20)。
 「東方からの博士たち」というのは「東方」の宮廷に仕える、占星術の専門家で、天文学の学者、賢者でもあった。むろん異邦人である。「星の上昇するのを見た」というのは天文観測をしていた博士たちの職務上当然のことであった。
 「星」について。民数24:17にある「ヤコブからの星」がメシの出現を意味したであろうが、これを即この博士たちの星と同じものと解釈していいかは(古代のオリゲネスなど)問題。確かに古代においては、偉人たちの誕生のさい、「天における大いなるしるし」(黙示12:1)が現われると考えられていた。しかしこの「星の上昇」についてはハレ一彗星の出現のことであると解釈されたが、これは紀元前10年ころでイエスの誕生の時期より早すぎる。また前4年ころ現われたある彗星のことだともいう、後のキリスト者天文学者。さらに新約聖書学者シュタイフアーは前6年ころ、木星土星との合が三回あり、その際木星を王の星、土星ユダヤ人の星とみなされた、博士たちの星はこれであろう、という解釈をした(「イエス」)。
 しかしこのような天文学的な解釈は、マタイの意図とは合致しない。マタイはある奇跡の星を述べようとしたからだ。特に木星土星との合との解釈は、この箇所の星は「一つの星」の意味であリ、天体、星たち(複数形)をいっていないので無理である。奇跡の星を天学的な追求をすることはできない。マタイは古代において信じられていたように、大いなる人物の誕生の折りに起る、特別の天における現象としてこの星を問題にしたから。
 むしろレビへの遺言18:5「彼の星は王と同じように天に輝き、この世界で支配するであろう」にあるようなメシアの出現を示す星が眼目である。
 「イスラエルの王」という表現に比べて「ユダヤ人の王」という言い方は異邦人的なものとなる。王やエルサレムの住人が「狼狽した」理由は「新しく生まれたユダヤ人の王」自体に対するもの。「エルサレムの人全体も」というのは、イエスエルサレムとの否定的な関わりを示している、23:37以下。この都市はイエスを殺害した町であり、その住人も27:25によれば、イエスを拒絶した人々である。ヘロテは、ユダヤ教の権威者たちを集合させて、メシア誕生の地についての、聖書の預言をたずねた。答はべツレヘムであった。ベツレヘムエルサレムの南8キロ、ダビデの出身地「ダビデの町」(ルカ24)で肥沃な牧草地のある町であった。メシア誕生の地としての預言はミカ5:1。引用は、ヘブル語原典からでも70人訳からでもなく、自由なメシア証言集からのもの(ローマイヤーの注解)。ここで明らかになる「メシア像」は、神の民イスラエルを牧するメシア的な羊飼いである。18:12以下、ヨハネ10:11以下参照。
 博士たちがべツレヘムに出発すると、再びあの奇跡の星が出現して彼らを導いていく、9節。博士たちは王からメシア誕生の地がべツレヘムの町であることを知つたが、それがどの家であるかを示した、到来した新しい王が生まれた場所を告げたのだ「幼児がいる場所の上で止まった」9節。「場所」を「洞穴」と読む別の伝承もある。
 この箇所全体のポイントは、この10~11節にある。その星の再度の出現で、これは神の導きを示すものであるが、「博士たちは大いに喜こんだ」。直訳では「大きな喜びを激しく感じた」と強調されている。
 11節。「彼らが家の中に入ると、その母とともにいる幼児を見た」。博士たちがどのようにして 「他の幼児」とその幼児を区別できたかはしるされていないが、それは「星による啓示」に対する博士たちのつつましい信頼を物語るものであって、この記事の簡潔さと偉大さを示すものである(ローマイヤー)。
 「博士たちは幼児にひれ伏して拝した」。「ひれ伏して拝する」はについてローマイヤーは、それは《崇拝》ではなく、むしろ半分は宗教的、半分は世俗的な《畏敬》を示すものであり、その理由は地上の王の場合と同様、彼らが贈り物をたずさえてきたからだ、という。しかし両者を厳密に区別する必要はない。この用語は28:9にもあって復活のキリストに対する女性たちの行動をしめしているから。博士たちの贈り物は、旧約聖書における《主の日に異邦人とその王たちが贈り物をたずさえてエルサレム詣でをする》という伝続的な預言、イザヤ60:6、詩72:10~11の成就を示すとの解釈が一般になされてきたが、この関連、旧約聖書のこれらの預言の内容はいま一つはっきりしない。贈り物のうち「乳香」はアラビア、ソマリア産のかんらん科の木の樹脂皮からとった乳色の香料。シバ産のもはイザヤ60:6に出てくる。「没薬」(ミルラ)もアラビア、エチオピア産のかんらん科の木からとった樹脂の香料。儀式、理葬、化粧などに用いられたという。乳香はイエスの死と関連づけて解釈され(マルコ15:23)、また黄金は王としてイエス、乳香は神としてイエス、没薬は人としてのイエスにもたらされたとも解釈された。とにかく博士たちは最も高価な贈り物を幼児にささげたことになる。博士たちの帰依の行動、贈り物は、私たちを幼児キリストの本質に目を向けさせる、タビデの子(1:1)神の御子(「わが子」2:15)、救済者(1:21)インマヌエル.イエス(1:23)。