建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、愛の行為  ロマ12:9~13

1998-1(1998/1/4)

愛の行為  ロマ12:9~13

 「愛が見せかけけのものであってはならない。悪を憎み、善に執着し、互いに兄弟愛に喜んで身を献げ、互いに敬意を示すことに先んじさない。物事に熱心で投げやりでなく、み霊に燃え、あらゆる瞬間に(主に)仕えなさい。希望のうちに喜び、患難に耐え、たゆまず祈りなさい。聖徒たちの欠乏を共に担い、旅人をもてなすことにつとめなさい」
 8節までの「賜物の多様性」は、ここでは日常的な生活で実証すべきことをパウロは説いている。パウロキリスト者の「賜物」の第一に「愛・アガペー」を置いている。ガラ5:14。むろんこの愛は人間の行為のことである。「愛が《見せかけのもの》」は「偽善的なものであってはならない」の意味。第二コリ6:6、第一ペテロ1:22。パウロはここで愛の変質・曲解を警告している。愛は感情以上のもの、他者のために存在することである、ケーゼマン。愛の眼目は「愛が真理・真実を喜び」(第一コリ13:6)「自己追求しない」(同5節)点にある。「打算的な愛」第二コリ6:6は愛の「動機」を問題にしている。「見せかけの、偽善的な愛」も、動機とその実践との分裂の問題である。マタイ6:1~4。施しの行為を隠れたところでなす、これが本末転倒して、人に見せるため、誉められるために施しをする、というのは一つの「見せかけの愛」である。他者への献身であるはずの愛の行為が、いつのまにか「自分が誉められるため」という自己追求に変質するから。真実の愛は神ご自身からくるもの、み霊の賜物としての性格をもち、「よりすぐれた賜物」第一コリ12:30)として理解された時、真正のものとなる。その意味では、人間の愛の行為を神の愛の形と比較して、人間の愛には「不純な要素」がつきまとう点を点検し、人間が真に愛することができないと絶望する必要がある。他方では、にもかかわらず、そのようなキリスト者に神の愛が現在み霊をとおして注がれている、5:5、ことによって、この愛が人間的な起源をもつものでなく、キリストの十字架のアガペー・愛に起源をもち、み霊によって与えられた賜物であることを知ることによってキリスト者も「愛することができる」との帰結に達することが重要である。
 愛は真理と結合している、第一コリ13:6。すなわち愛は理性的な認識と結合していて、批判的な認識作用を内に含んでいる。母性愛がしばしば「盲日的愛」と呼ばれるが、愛・アガペーはこれと異なる。「アガペーは不義を喜ばないで、真理を喜ぶ」 第一コリ13:6は、アガペーが理性的、批判的機能をもっていることをふまえている。例えば祖国愛を考えると、日清戰争が朝鮮を清国の圧政から朝鮮を独立させるためという「義」のために日本が戦うと考えて、多くの日本人はこれを正義の戦争・義戦とみなした。しかしこの戦争は日本政府に多くの利益、権益をもたらした、内村鑑三は朝鮮の独立を助けるとの口実のもとに、結果として朝鮮の支配権を獲得した政府を痛烈に批判した。彼の愛国心は祖国の政策を盲目的に支持するのではなく、祖国の誤った政策を厳しく批判する、批判的な愛の形をとっていた。
 パウロはここで「愛と善」を結合させているが、ユダヤ教のべニヤミンの遺訓8:1には「悪と嫉みを逃れ、善と愛に固着せよ」とある。この9節はこの影響をうけていよう。パウロはここで、「愛は善に味方し、惡を憎む」という極めて党派的な発言をしている。また愛は中立性を締め出して、主と主の事柄に味方するという、ケーゼマン。キリスト教は近代以後特に政治的社会的な分野での発言においてこの「中立性」という幻想の虜になってきた、ベトナム戦争に対するWCCの態度など(1970年ころ)。
 特に「悪を憎め」のポイントは、宗教界、キリスト教界から影をひそめ、宗教の存在意味を疑わしめ)、宗教が与えるはずの生命力を弱めた。「宗教が悪との戦い」を放棄したからだ。ソルジェニツインは宗教の存在意義を「悪との戦い」の中に見出したのだが。パウロが政治的社会的分野のことまで念頭に置いていたかどうかは、明らかではないが(12:2後半)、このポイント自体は、政治的な分野における悪との戦いをも含んでいる。
 10節「互いに兄弟愛において《喜んで身をささげ》」はNTでここだけ。政治的宗教的分野での尊敬されるべき献身的な立派な行為のこと、ケーゼマン。
 「互いに敬意を示すことを《尊重しなさい》」はピリピ2:3「互いを自分よりもまさるものと思う」と同じ意味合い。「尊重する」は情緒的な暖かみの意味。自分を受け入れてくだった主は兄弟において自分と出会いたもう、という思いで、兄弟に敬意を示す、このことを、14:3、15でもパウロは展開している。