建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、カイロス  ロマ13:11~14

1998-8(198/2/22)

カイロス  ロマ13:11~14

 「そして(現在の)時を知ること、(すなわち)あなたがたにとって眠りから覚めるべき時刻がすでに来ていることを知ること。つまり今は、救いは私たちが信仰に到達した時よりもはるかにあなたがたの近くにある。夜はふけて、昼が近づいている。だから闇の業を脱ぎ捨てて光の武具を身につけようではないか。昼間には私たちの歩みを栄誉へと導こうではないか。宴会と酒宴、性と乱痴気騒ぎ、闘争と争論ではなく、むしろ主イエス・キリストを着なさい。情欲を芽生えさせる肉のことを心に抱くな」
 パウロはいう、ローマのキリスト者らは、《現在の特別の時・カイロス》がどのようなものであるか、すなわち、彼らがよみがえりのキリストと結びつけられ、み霊の力が自分たちの内に作用しているのであるから《救いの将来の永遠性が現在の時に介人している》ことを知っていると。この時が終りの時、転回点の時であることを彼らは知つている。この「時・カイロス」はここでは「眠りからさめるべき時刻」と表現されている。
 黙示文学、ダニエル8:17、19では「終りの時の到来」について語っている、「人の子よ、悟りなさい。この幻は終りの時に関わるものです」。「至高者がもたらす終りともたらされるべき彼の恵みがきわめて近いこと、また彼の審判の終りが遠くないことを、あなたは知ることになる」(バルク黙示録82:2)。
 エペソ5:14「眠っているきみよ、目覚めなさい。死人の中から立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたの上に現われるであろう」とあるが、これはイエスが来臨の喩話で約束されたことが(マタイ24:48~50、25:1~13など)キリスト者に実際に起きることを意味している。
 救いの現在と将来。「私たちが信仰に到達した時」(11節)とは、「洗礼」のこと、洗礼は現在の視点からみるとすでに過去のことになっている、それゆえ「終末時の救いはますます私たちに近くなっている」11節。6章の洗礼においては、「キリストの死と結びつけられ、彼の死と同じ姿となるなら」(6:5、受身の現在形)「キリストの復活とも同じ姿となるであろう」(未来形)とあって、洗礼と結合した義認は現在の体験として述べられ、他方「キリストの復活と同じ姿になる」=「体のよみがえり」は将来のものとして理解されている。救いの現在と将来について8章では、「現在」についてはみ霊がキリスト者の中に住んでいると述べられ(8:11)、「将来」については「体の贖いを待ち望む」23節、「死ぬべき体を復活の生命に生かしてくださる」11節、すなわち死人の復活への待望と理解されている。
 13:11でも救いの現在と将来とは、洗礼と救いへの待望を根拠にして、相互に結合されている。この箇所は、第一テサ4:13以下と同様「主の来臨」の近きこと「切迫した来臨への原始教会の待望」を述べたものである。カイロス・時は、転回点にある、すなわち「夜はふけて、昼が近づいている」12節。現在は「夜明け前」である。夜はふけて夜の闇がうすれ、曙が到来した。「眠りから覚めるべき時刻」(11節)とはそのような夜明けの到来の意味である。「近づいている・エーギケン」は完了形で直訳では「到来しつつある」こと。そればかりではなく、「眠りから覚める」は主の日の到来、イザヤ26:19「あなたの死者は生き返り、彼らの亡骸は起き上がる」、先のエペソ5:14にあるように「死人がその眠りから目覚める・死者のよみがえりの時」終末時をも意味する。しかしながら、原始キリスト教会においては、イエスの十字架の死と復活における第一の終末(マタイ27:51~53)と同時に第二の終末「主の来臨・再臨」マタイ26:64、第一テサ4:16~17)を待望していた。この「主の来臨」のテーマは、重大な問題となった。時期的には、イエスパウロの時期と福音書の成立した時期との二つに区分できる。イエスパウロの時期においては、特にパウロの場合「主の来臨まで生き続ける私たち」(第一テサ4:15)、「ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ(その時点まで生き続ける)私たちは変容される」(第一コリ15:51)とあるようにパウロは自分の生きている間に「主の来臨」があると考えていた。そして来臨以前に死んだキリスト者らも来臨の時に「死からよみがえる」と説いた(第一テサ4:16)。
 これに対して福音書が成立した時期、後80~90年の時期には(パウロよりも30年後)事態が変わった、主の来臨が実現しなかったのだ。そして一部にはこういう反応も出た「主の来臨の約束はどうなったのか、先祖たちが眠りについてから、すべてのものは大地創造のはじめからそのままであって、何も変わっていない」(第二ペテロ3:4)。しかしながら、「来臨の遅延」によって原始キリスト教全体は大混乱には陥ることなく「主の来臨への修正・新しい解釈」をもって「来臨の遅延」に対処した。これが福音書にある「主(主人)の帰還を待つ僕たちの喩」である(ルカ12:35以下、マタイ24:39~50、25:1以下)。そこでの基本的な見解は「思いがけない時に人の子(メシア)が来る」(マタイ24:44)というものであり、またそこでの基本的な勧告は「目を覚ましていること」(ルカ12:37)「目をさましていなさい。あなたがたの主がいつの日に来られるか、あなたがたは知らないからだ」(マタイ24:42)であった。
 12節「夜はふけ、昼が近づいている」はこの「現在の時・カイロス」の特徴を明確にしている、キリスト者は過去の洗礼の時を後にして、究極の救いへと歩んでいる。この「昼」を前にした時間帯は、完成の時ではなく、闘争の時である。それが後半の要求・勧告である。「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を着ようではないか」。