建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、キリストを着る  ロマ13:12~14

1998-9(1998/2/28)

キリストを着る  ロマ13:12~14

 「夜はふけ、昼が近づいている。したがって闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を着ようではないか。昼間には栄誉へと至るように歩もうではないか。美食と酒宴、性的な放蕩と乱痴気騒ぎ、闘争と口論でなく、主イエスキリストを着なさい。欲望を芽生えさせる肉のものをに心を向けるな」
 12節「夜はふけ、昼が近づいている」はこの「現在の時・カイロス」の特徴を明確にしている、キリスト者は過去の洗礼の時を後にして、究極の救いへと歩んでいる。この「昼」を前にした時間帯は、完成の時ではなく、闘争の時である。それが後半の要求・勧告である。「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を着ようではないか」。
 12節後半「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を着る=身につける」においては、二つのポイントが登場する。一つは「闇と光の対比」である。この対比は前半の「夜と昼の対比」に対応している。「光の子と闇の子」の対比についてパウロは、第一テサ5:5で「あなたがたは皆光の子、昼の子である。私たちは夜の者でも、闇の者でもない」、エペソ5:8「あなたがたは、以前は闇であったが、今は主にあって光となった。光の子らしく歩みなさい」。この対比はイラン・ペルシャ宗教における二元論に由来し、ユダヤ教流入したもの。当時のユダヤ教の分派、クムラン教団では、自分たち会員を「光の子ら」と呼び自分たちが外部の人間「闇の子ら」と絶えず《闘争》を繰り広げる、とあるという、ヴィルケンス。キリスト教も自分たちを「光の子」と表現したのだ。パウロにおいても、この夜明け前の時期は、闘争の時期である。「光の《武具》」「私たちは昼の者であるから、信仰と愛との《胸当》を身につけ、救いの望みの《かぶと》をかぶって」(第一テサ5:8)。ただしこの闘争はクムランのように外部の「闇の子ら」とのそれではなくて、「闇の支配との、闇の支配下にあった古き自分との、古き自分の行動《闇の業》との闘争」であるという。そしてキリスト者に「光の武具」を与えたのは「洗礼」である。
 13節では「闇の業」について具体的にしるしている。「美食と酒宴、性と乱痴気騒ぎ闘争と争論ではなく」。ルターはこの箇所を詳細に講解している。「美食と酒宴」をルターは「酒宴」と翻訳し「ご馳走の備えや催しの際の無軌道な乱費」「饗宴」をも意味するという。この用語はガラ5:21「泥酔、宴楽」、第一ペテロ4:3「淫蕩、情欲、酔酒、《宴楽》,暴飲…」にも出てくる。「この悪徳は当時ローマではびこっていたばかりでなく、君臨し、暴れ狂っていた。…そこではすでに淫蕩が極度の狂乱に達していた」(ルター)。次の「性と乱痴気騒ぎ」も「性的な放蕩」、第二コリ12:21、ガラ5:19で協会訳では「好色」。パウロも「酒宴」の必然的な結果として「性的な放縦」をとらえている。第二ペテロ2:1111以下「彼らは真昼の酒食を楽しみ、あなたがたと食を共にし、飽食している。その目は淫欲で満ち、罪に飽くことなく、気弱な者を迷わす」。ルターが指摘したように、これらは当時のローマで支配的な悪徳で、キリスト者を取り巻く「環境」であり、キリスト者の内外に浸透していた。パウロはこれらの惡徳を「闇の業」と呼び、そこからの離脱「脱いで」を勧告している。
 14節後半でパウロはいう「欲望を芽生えさせる肉なるものに心を寄せるな」と、ルターはいう、「『肉を愛護する者は敵を養うのである。肉を滅ぼす者は友を殺すのである』(グレゴリウス)。肉をでなく、肉の惡徳、つまりむさぼりを人は打ち破らなければならない」。
 14節前半の「キリストを着る」について。これは「光の武具を着る・身につける」の具体的な展開。「着る一脱ぐ」は用語的には、当時のヘレニズムの密儀教に由来するもので、その信者らが祭儀において独特の衣を着ることで《神々との神秘的な結合》を示す行為であった。パウロはこの用語をキリスト者とキリストとの結合に応用した。キリスト者は《洗礼》をとおして身体的にキリストと結合される。
 「キリストを着る」という表現はパウロの特愛のものであるが、いくつかのポイントをふまえたい。第一に、「キリストへと洗礼されたあなたがたは皆キリストを着たのだ」ガラ3:27。ここでは「キリストを着る」は過去の洗礼を意味する。第二に、キリストの体=教会に所属すること=「キリストの神秘的な体に与ること」(シュヴァイツァー)をも意味する。そしてこの洗礼をとおしてキリスト者は、民族、男女、身分の相違を乗り越えてキリストにあって「一つとされる」28節。第三に「私の中にキリストがおられる」新しい人の誕生を意味する。「あなたがたは古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着たのだ」コロサイ3:8も同様である。エペソ4:22以下「あなたがたは以前の行状による古い人を脱ぎ捨てなさい。それは欲望に惑わされて滅びるものである。あなたがたの心も霊も新たにされて新しい人を着なさい。それこそ真の義と聖のうちに神にかたどって造られたものである」。この「新しい人」は教会の一員になることで可能となる。第四に「朽ちるものを脱いで、朽ちないものを着る」第一コリ15:53~54。ここではキリスト者の将来的な、復活の新しい存在様式をいっている。
 第五に、第二コリ5:2以下「私たちは《天からの住まい(永遠の家)を着るよう》に憧れうめいている。…私たちは幕屋(地上の家)にいる間重荷にうめいている。それを脱ぎたいからではなく、上に着たいからだ。それは死ぬべきものが生命にのみ込まれるためである。神はその保証としてみ霊を与えてくださった」。ここでは「キリストを着る」というテーマが地上的な存在様式が「こわれた」後の(1節)新しい、天的な存在様式を着ることであって、そのための《現在の戦い》が「うめき」として述べられている。
 ロマ13:14では、欲望に突き動かされる古い人の「闇の業」を脱ぎ去って、自己実現のみに終始する自己から解放されて、自分を神と隣人にささげる、「互いに愛し合う」存在へと変わるべきことが勧められている。