建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、弱い者と強い者1  ロマ14:1~6

1998-10(1998/3/8)

弱い者と強い者1  ロマ14:1~6

 「信仰において弱い者を受け入れなさい。その思い煩いに口論してはならない。ある者はすべてのものを食べてよいと信じているが、他の弱い者は野菜だけを食べている。食べる者は、食べない者を軽蔑してはならない。食べない者は、裁いてはならない。神がその者を受け入れたもうたからだ。他のしもべをさばいているあなたは、一体なにものなのか。その者の主人次第で、彼は立ちも倒れもする。しかし彼は立ち続けるであろう。主が彼がまっすぐに立つ力を与えたもうからだ。ある者はその日が他の日よりもだいじだと考え、またある者は、どの日も他の日と同じだと考える。二人のうちどちらも、自分自身の考えに、自分の確信をもつがよい。日を重んじる者は、主のために重んじるのだ。そして食べる者は、主のために食べる。彼は神に感謝の祈りをとなえるから。食べない者は主のために食べない。神への感謝の祈りをとなえるからだ」
 パウロキリスト教共同体の中に、確かに「信仰的に弱い者」が存在している点を事実として受け入れている。
 パウロが「信仰的に弱い」ポイントとしてあけている例は、二つある。一つは「食物の規定」についてである。もう一つは「暦」の問題。これは簡単な問題ではなかった。
 食物の規定について。ここでは「すべてのものを食べてよいと信じている」者と「野菜だけ食べる弱い者」が取り上げられている(2節)。
 パウロは第一コリ8草で「偶像への供え物を食べること」について論じている。「私たちが(偶像への供え物の肉を)食べなくても、不利にはならないし、食べても優れているわけではない。あなたがたの自由が弱い者をつまずかせないように注意しなさい。もし誰かが知識のある《あなたが偶像の宮で食卓についているのを見て》彼の良心は弱いので、それ(その行為)を『お手本にして』《偶像に供えられた肉》を食べないであろうか。だとすれば、その弱い者はあなたの知識をとおして滅びるのだ。キリストはこの兄弟のために死にたもうたのだ。このようにあなたがたがその兄弟に罪を犯し、その弱い者の良心を傷つけるならば、あなたがたはキリストに対して罪を犯しているのだ。それゆえもし食物(食事)が私の兄弟をつまずかせるならば、私は永遠に肉(偶像に供えられた肉)を食べようとは欲しない」(6:13)。
 行伝15:29によれば「偶像に供えたもの、血、絞め殺した生きもの(と不品行)を避けること」とあって、明らかに「偶像に供えられた肉を食べることを避けよ」と述べている。この「使徒指令」はパウロ時代のものではなくルカ時代のもので、しかもヤコブ、律法に忠実なユダヤキリスト者が唱えたもの。黙示録2:14でも罪とされている。
 ロマ14章でも類似したテーマが問題となっている。「ある者はすべてのものを食べてよいと信じている」は、第一に、旧約聖書の律法の食物規定、使徒指令の内容に全く無関心な、律法なきキリスト者のありようを取り上げている。第二に、「すべてのものを食べる」と「野菜だけ食べる」の対比でパウロは「意識的に非禁欲的な生活しているグループと意識的に禁欲的な生活スタイルを保つグループ」の対比、共存を示している、ヴィルケンス。使徒指令のポイントはまだ問題となっていない。禁欲的なグループは「肉を食べず酒を飲まない」であったが(ギリシャの宗教オルフェウス教、ディオニソス教、も菜食主義であったという)、《自ら清い生活》をすることで、主に従っているとの傲りがあって、禁欲的な生活をしていない他のキリスト者を冷ややかに見ては、彼らを「審く」に至る、3節。パウロは彼らを「信仰的に弱い者」と規定している、1節。他方「自由な、非禁欲的なグループ」は「知識のある、熟達した」グループ、「強い者」である、15:1。彼らはいつまでもトーラの食物規定にこだわる禁欲生活者を「軽蔑している」3節。パウロはここで「すべてのものを食べる」ことが正しいとか、「野菜のみを食べる」ことが正しいとか言っていない。むしろ教会共同体にいます「主」の存在を指摘する。
 4節「他のしもべ・オイケテース」はローマいた奴隷(デューロス)ではなく、家庭的な暖かい言い方で、キリストに仕えるキリスト者を指す。自由な生活スタイルの者が禁欲的な菜食主義者をさばき、菜食主義者が肉食する者を批判する、これはよその主人に仕えている下僕を審くようなものだとパウロはいう。彼には彼の主人がいる。彼への批判はしたがってその主人を差し置いての行為、主人すなわち「主をないがしろにする行為」である。「そのしもべの主人次第で彼は立ちもし倒れもする」4節。「私を審くかたは主である」(第一コリ4:4)。4節後段「彼は立ち続けるであろう」彼は主によって立たされるであろう。
 5節の、弱い者が「その日が他の日より重要である」がユダヤ教の暦、安息日、大贖罪日、過越を重んじていたユダヤキリスト者とは明言されていない、コロサイ2:10の「祭り、新月安息日」といった異端的な色彩のものともいえない。パウロは「彼らの立場」を特には批判していないので、律法主義的、異端的なものではあるまい。「日を重んじる者は主のために重んじる」6節。
 肉を食べる者にせよ、菜食主義者にせよ、みな「主のために」そうしているのであるから、一方は他方を裁いたり、軽蔑したりするな、むしろ信仰の弱い者を受け入れよ、とパウロは勧告する。その根拠は「神が彼・弱い者を受け人れてくださったからだ」3節。第一コリ8:10「キリストはこの(弱い)兄弟のために死にたもうた」