建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

神に見捨てられて  マタイ27:46~50

神に見捨てられて  マタイ27:46~50

 「第9時(3時)ころ、イエスは大きな声で叫んで言われた『エリ エリ レマ サバクタ二』。それはこうである、『わが神、わが神、なぜあなたは私をお見捨てになったのですか』」。
 ポイントはむろん「イエスの叫び」である。この叫びについては、マルコとマタイのみがしるしている。何か悲惨な、壮絶な感じがする。ルカとヨハネとが《この叫びを取り除いていること》は、この叫びに《メシア的栄光がなく、むしろつまづき・衝撃を与えるから》であろう。かたかなはへプル語とアラム語で、ギリシャ語訳がつけられている。よく知られているように、これは詩篇22:1の言葉である。
 詩22:1における「わが神」は「イスラエルの契約の神」であり、「私」は苦難の義人である。この詩人は苦難の中で、神がその契約に忠実であるように、神がその義をこの義人に示すことを嘆願している。そして22節以下ではこうある「私は会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。…なぜなら主は貧しい者の悩みを軽んじることなく、み顔を彼に隠すことなく、彼の叫ぶ時、聞きたもうからだ」。
 イエスの叫びにおいて 叫んでいるのは「苦難の義人」ではなく、メシア・キリスト告白をした「人の子」、「神のみ子」なるイエスである。「わが神」は「契約の神」ではなく「イエスの神」すなわち「父・アバ」「父なる神」である。「なぜあなたは私をお見捨てになったのですか」という言葉で意味されているのは、「父がみ子を捨てた」、すなわちこれまでのイエスの宣教と奇跡、そして審問におけるメシア告白、王告白これらすべてを「父」は今や否定される、ご破算にされた、「なぜ私をお見捨てに」はなぜ父は子の業を見捨てるのか、それは父の派遣に始まったのであるから、子の業を捨てるとは、父の業を捨てる、父たることを捨てるのか、という叫びとなる。イエスのメシア性がついえ去るところでは、神の神性、義もついえ去るということ。見捨てる神は「父」であり、見捨てられるイエスは「み子」である。父はなぜみ子を見捨てるのか。父なる神はなぜ子なる神を見捨てられるか、このことが問題となっている。詩22では「神はみ顔を隠すことなく神は苦しむ者の叫びを聞き届けられる」とあるが、イエスはこの問い「なぜ」に答が出されないままに、「神にその叫び聞き届けられることなく」息を引き取られた。したがってその死の姿は美しいものではなく壮絶なものである。
 だから次のような解釈は当たっていない。「イエスが神に見捨てられた状況で、にもかかわらず神に信頼したという逆説的な神信頼のありよう」としてここを解釈すること。たとえば「イエスは疑いの中ではではなく、神の腕の中に身を投じた、しかしまさしく疑いつつそれをせざるをえなかった」(シュラーゲ)。これは詩22篇の立場に近い。22篇の最後は神への感謝の言葉をのべているが、これはイエスの叫びとは結合しない。この言葉を人間の深い絶望の表明とみる立場(カミユ「反抗的人間」)「イエスはその終わりまで一切の絶望にとり囲まれて死の不安を体験しつくされた。これがラマ・サバクタ二と苦悶におけるぞっとするような絶望の説明である」はすぐれたものだが、イエスの叫びを単なる人間的な絶望の表明とみると、イエスのみ子としての叫び、あの叫びに対する《父の回答》というポイントが把握されていない。
 さらにローマイヤーの注解はいう、「この叫びは底意もしらない絶望を語っているが、この絶望の叫びは同時に『わが神 への祈りである。…イエスは、詩篇が伝えているように、あらゆる苦難を耐えに耐えねばならなった。十字架でのイエスの苦難、あの叫びにある絶望はそれゆえ終末論的な成就である。今や神のみ心はイエスに閉されつつ、イエスに開かれる。『人の子は苦しみを受けなければならない』(マルコ8:31以下)。かくてイエスは全く神に見捨てられることに耐えねばならない。したがってここでは人の子の秘密が啓示されている。イエスは人の子であり、それゆえいまイエスは神に逆らう死の瞬間において、全くの絶望に至るまで試練にさらされ、おののき、砕かれるからだ。まさしくそれゆにイエスは死と神に逆らう諸力を克服したお方である」(「マルコ伝注解」)。
 さすがにすぐれた注解であるが、あの叫びを「絶望と祈り」との逆説でとらえると、「父とみ子とのやりとり」というポイントが脱落し、あの叫びには《いまだ父なる神の答が出されていないとの未決さ》というものが把握できなくなる。
 イエスの十字架における壮絶なあの叫びを弱め、取り除こうとする傾向は先にふれたように、ルカ、ヨハネに見られる。しかしながら、他方では、ヘプル2:9協会訳「イエスは《神の恵みによって》すべての人のために死を味わわれた」における「神の恵みによって」は、別の読み方では「神なしで、神からへだてられて、神に見捨てられて」とあり、ハルナック、ブルトマンらがこの読み方をとる。ミヘルの注解は双方を並記する。やはりハルナックの読み方をとるべきだ、「イエスは神からへだてられ、神に見捨てられて死を味わわれた」。
 あの叫びのマルコより古い読み方ではこうあるという「どうしてあなたは私を恥にさらされるのですか」「どうしてあなたは私を呪われたのですか」(モルトマン)。すなわち「神に見捨てられたこと」が、十字架につけられたイエスの最後の神体験だった、これは「苦難の義人」の叫びでも、人間的な絶望の極限を体験した人のものでもなく、まさしく神のみ子として(l)父なる神への訴え、父のみ心、父の子に対する業、仕打ちに対するみ子の「なぜ」の叫びである。
 この叫びは、旧約聖書では「神がみ顔を隠されること」(詩10:11、イザヤ8:14、54:8)、神に「見捨てられる」体験(詩71:11、イザヤ49:14「主は私を捨てた」)。従来の神のみ心をリアルに感じることができないで、別の神「私を贖うおかた」を追い求めたヨブの神体験(ヨブ19:25)、「私は必ずやこの告訴状を身に結んで、君たる者のように彼・神に近づくであろう」(31:34)。また中世の「魂の闇夜」(十字架のヨハネ)、現代の「神の日蝕」(ブーバー)、「神の沈黙」(エリ・ヴィーゼル「夜」遠藤周作「沈黙」)にきわめて接近している。接近はしているがイエスの死そのものとは異なる。イエスの死の独自性は「神に見捨てられて死を味わいたもうたこと」にあるからだ。
 さて十字架のもう一つのポイントは、ローマが反逆者に課した「十字架刑」に対してユダヤ人は独特の見解を持っていた点で、「木にかけられた者は神に呪われた者である」(申命21:23)とある。パウロはここを引用して述べている、ガラ3:13「キリストは私たちのために呪いとなりたもうて、私たちを律法の呪いから贖い出してくださった。というのは『木に架けられた者は誰でも呪われている』としるされているからだ」。パウロは「キリストは私たちのために呪いとなりたもう」で十字架につけられたキリストを《木に架けられた者》、つまり神から呪われた者であると把握している。「十字架」という意味で「木」と表現されている箇所は、ガラ3:13も含めていずれも「イエスの呪われた死に方」を強調している。
 行伝5:30「私たちの祖先の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせた」、10:39「人々はイエスを木にかけて殺した」。
 第一ペテロ2:24「木にかけられたキリストは、私たちの罪をご自身の体で負った。私たちが罪に死んで、義に生きるためである。キリストの『その傷であなたがたは癒されたのだ』(イザヤ53:5)」。
 「キリストの傷」とは「神から見捨てられた」という神体験であり、キリストのこの傷のゆえに、「神から見捨てられた」との私たちの「傷」は癒される。私はかつてこの傷の癒しを体験した。