建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

神による判決  行伝2:23~28

1998-15(1998/4/12)

神による判決  行伝2:23~28

 「神の下された決定と摂理とにしたがって引き渡されたこのお方を、あなたがたは不法の人々の手をとおして十字架につけて、殺させてしまった。しかしこのお方(イエス)を神はよみがえらせ、死の苦悶から解放された。このお方が死の力の中に止めて置かれることはできなかったからだ。ダビデはこのお方について言っている、『私は常にわが前に主を見た。主は、私が揺れ動くことのないように、私の右にいたもう。それゆえわが心は喜び、わが舌は歓呼する。しかもわが肉も希望のゆえに安息するであろう。あなたはわが魂を黄泉に放置したまわず、あなたの聖者が腐敗を体験するのを許したまわないからだ。あなたは私に生命への道を告げ、私をあなたのもとにある喜びで満たしてくださる』(詩16:8~11)」(ヘンヒェン訳)
 これまでユダヤ最高法院・サンヘドリンのイエスに対する審問、総督ピラトによる審問さらに父なる神のイエスに対する裁定「み子を見捨てる」を取り上げてきた。これらの審間、裁定はいずれも「法に基づく正義の判決・イエスの死刑判決」を出した。しかしながら、それは最終判決ではなかった。 地上の裁判は最終判決とはなりえないからだ。かつて社会主義ソ連で、粛正された人々の「名誉回復」という事件が起きた、粛正された政治家ブハーリンや文学者パステルナークらが死後数十年して名誉回復した。だとすれば、彼らを裁いた裁判は何であったのか。罪ななき者たちの名誉は回復しても、殺された罪ななき者の生命はどのようにして贖われるのか。「旧約聖書における復活の信仰は正義の成就に対する要求に帰せられる」(フォン・ラード)。
 イエスの十字架の死はこのような「正義の法延をめぐる問題」を提起する。「キリスト教の復活信仰もまた、根本的には歴史における神の義への問いの文脈の中にある」(モルトマン「十字架につけられた神」)。イエスの十字架上の叫び「あなたはなぜ私を見捨てられたのですか」は《未決のもの》であり、神による最終の、究極的な裁定は《いまだ出ていなかつた》。そして神がイエスに出された裁定が「イエスのよみがえり」である。イエスの復活のテーマはこのような「正義の実現というすぐれて《法的な要因》」と関連する。政治的には「正義の実現」、信仰的、神学的には「神の義の問題」である。
 行伝2:23「神の下された決定と摂理とにしたがって引き渡されたこのお方」について。23節によれば、イエスの十字架は「神の決定と摂理にしたがうもの」であった。「しかもヤハウエは彼を砕くことをねがい、彼を刺した」(イザヤ53:10、中沢訳)。むろん十字架の時点では弟子たちにも、カヤパにもピラトにも「この摂理」はわからなかった。そして神の摂理の究極が「イエスのよみがり」であった。「このお方をあなたがたは十字架につけて殺させた。このお方を神はよみがえらせ、死の苦悶から解放された」

 23~24。32、36。イエスのよみがえりは、イエスに対する死刑判決に決定的な逆転をもたらした。すなわち、神がイエスをよみがえらせたもうのであるから、サンヘドリン、ピラトの死刑判決は《破棄され》、逆に神はイエスを十字架につけたすべての人を不義なる者とされる裁定をされたのだ。そして逆に《神はイエスを義とされ》、そのメシア告白その王告白をも是認され、イエスの宣教と奇跡をも承認される(2:22)。このよみがえりはそれゆえ単なる奇跡ではない。第一ペテロ1:21「キリストを死人の中からよみがえらせて栄光を与えられた神」、コロサイ1:20「神はキリストをよみがえらせて、天におけるご自分の右に座させた」などの箇所は、イエスが神によって義と認められたことを述べている。

 「復活の宣教の眼目は、神がイエスをよみがえらせた、したがって《神がイエスを最終的に正しいと定められた》ということである」(ヴィルケンス「イエスの復活の伝承史」)。イエスのよみがえりと私たちの関連をパウロは述べている「キリストは私たちの罪のために引き渡され、私たちの義認のためによみがえらされた」ロマ4:25。その意味はこうである、「義を剥脱されたこのお方を神が、神の来たるべき義の中へよみがえらせたとすれば、このことは、逆に、神が十字架につけられたお方によって神の真の義、つまり義ならざる人々や義を失っている人々を義とされる、無制約的な恵みの義を啓示するということである」(モルトマン)。
 25~28節(詩16篇の引用)について。この箇所は旧約聖書における復活を述べたものとされているが、ダビデ(この詩の作者としての)はメシアの復活を予言している。ここでの「私」はメシア・イエス、「あなた」は神のこと。
 25節全体を「生前の」メシア・イエスについて述べたものとみる解釈がある。「主は私の右におられる」は、十字架におけるイエスが「神から見捨てられる体験」をしていないとルカは考えている(ヘンヒェン、シュナイダー)。しかしこれをイエスの死後の事柄とみれば、十字架においてイエスを見捨てた「神はハデス・黄泉においてイエスと共におられた」(バウアー)とみる解釈も成立する。
 26節後半「わが肉も(墓の中で)希望のゆえに(基づいて)安息するであろう」は、埋葬されて墓の中にあるイエスについて述べているが、《復活への希望》のゆえにイエスの肉が安息していたと、と語っている。
 27節は頂点で「復活への希望」が具体的に述べられている その希望の内容の一つは「あなたは、 わが魂を黄泉に放置したまわない」。ここでは死者の魂はすべて死者の国に入っていくとの初期キリスト教の考えをふまえ(ルカの場合は義人の魂は死後パラダイスにいく、ルカ23:43)イエスの魂も死者の国に入っていったが、しかし神はイエスの魂が死者の国・黄泉にとどまること、放置されるのを許されなかったという。
 復活への希望のもう一つは後半「あなたの聖者が腐敗を経験するのを許したまわなかった」。「あなたの聖者」はメシア・イエスのこと。旧約聖書には「《墓》を見させることはない」とあるが、70人訳は「墓」を「腐敗・滅び」と訳した。「腐敗を経験するのを許したまわない」はイエスを復活させた「神の行為」をのべている。行伝13:34「神はもはや腐敗に引きもどされることのないお方として、イエスを死人の中から復活させられた」、同37節「しかし神がよみがえらせたイエスは、腐敗を経験しなかった」。モルトマンはここを解釈した「復活をとおしてイエスの体の無欠さは保たれていた。イエスは《腐敗しない、朽ち果てることのない体》に復活された」。
 28節「あなたは《生命に至る道》を私に告げてくださった」は、メシアの体の非腐敗性(27節)を超えて、「生命に至る道」すなわち《死から復活の生命に導く道》、言い換えるとより積極的にメシアの復活そのものを直接述べている(ヘンヒェンの注解)。

 「キリストの死すべき人間的体は《変容》した。こうしてキリストは今、徹頭徹尾《生命をつくる神の霊》によって貫き通された《栄光の体》において生きておられ、このような変容において現われたもうた」(モルトマン「イエス・キリストの道」)。
 行伝のこの箇所は《墓の中の》イエスに対する神の行為を述べた特異なものである。イエスの「死人の中からのよみがえり」がイエスの魂が死者の国に放置され、その亡骸が腐敗するのを神は許されなかった、との神によるイエスの死人の中からのよみがえりが具体的に述べられている。復活は墓における神の行為であった。エゼキエル37:12。福音書もイエスの「空虚な墓」について述べている、マタイ28:1~2。
 総括的には、イエスの復活は義をめぐるテーマとして把握される。そしてこの義のテーマは私たちの義認のテーマでもある。ロマ4:25「主は私たちの義認のためによみがえらされた」。