建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イザヤの召命(2)  イザヤ6:6~9

1998-26(1998/7/5)

イザヤの召命(2)  イザヤ6:6~9

 「その時、 セラフィムの一人が、祭壇から火箸にはさんだ燃える炭を手にして、私のもとに持ってきて、それを私の口に触れて、言った
 『これがあなたの口に触れた時、
  あなたの咎は消え去り、あなたの罪はおおわれた』。
 その時私は主の声が語りたもうのを聞いた
 『私は誰を遣わそうか、
  誰が私たちのために行くであろうか』。
 その時私は言った
 『私がここに!私をお遣わしください!』。
 その時主が言われた
 『行け、この民に語れ、
  (あなたがたは)ただ聞きはするが、しかし理解しない。
  ただ見ることはするが、しかし認識しない。
  この民の心をにぶくし、
  彼らの耳を重くし、彼らの目をふさげ。
  自分の目で見、自分の耳で聞くことがないように、
  彼らの心が悟りに至らず、
  再び(立ち帰って)癒されることがないように』」カイザ一訳

 読んですぐ明らかなように、ここでは第一に、イザヤ自身の「罪の赦し」が述べられている、6~7節。ここでの「罪の赦し」の主役は、セラフィムである。セラフィムは「祭壇から火箸ではさんだ燃える炭(石)をイザヤのもとに持ってきて、イザヤの口に触れた」6節。「祭壇」は至聖所にある「香壇」、大祭司はこの香壇で朝夕、動物犠牲を燃やしたのだ、出エジ30:1以下。「燃える炭」は、火と同じように清める力を持っていた(民数31:22などは、金、銀、銅などは火を通すことで「清められる」とある)。イスラエルでは、祭司や大祭司が贖罪所で動物犠牲をすべて焼き尽くすことで祭司自身の罪・民の罪が赦されると考えられた、レビ4:26、35。ここではセラフィムの行動をセラフィム自身が説明している。7節「燃える炭を唇に触れることをとおして、咎が消え失せ、罪がおおわれる」と。「罪がおおわれる」は祭儀用語で、申命21:8によれば、犠牲の血を流すことでの罪の贖いを意味し、「神に罪をおおわれることで罪が赦される神の恵みの働き」を示している、関根。しかし「このような罪の赦しのやり方・祭儀」が実際に存在したとは考えられない、関根、カイザ一。むしろ7節は、贖罪の祭儀一般ではなくイザヤだけに起きた「特異な贖罪の体験」とみたほうがよい。この特異さは、セラフィムの介在による贖罪であったばかりではない。贖罪がイザヤの器官のうちで特に「唇を贖い、きよめる行為」であったこと(フォン・ラート)をも意味している。イザヤ自身の罪の告白では「汚れた唇の者」イスラエルも「汚れた唇の民」としるされている、5節。罪の核心の一つは「唇」言語的活動自体(それは神への高慢であろうが)にあった。本来、唇は「神を聖とし神を畏れて」(8:12)神賛美や神への祈りの器官となるものであるが、現実にはそうはならないで、「汚れ」すなわち「神への畏れの欠落とおしゃべり・饒舌」(関根)、偽り、不平を表現する器官となり果てている。イザヤにおける「汚れた唇」の贖い、清めは、神が彼に与えられる「唇の機能」を果たすことを可能にする(フォン・ラート)。
 イザヤにおいては、自分の咎と罪の贖いの体験は、彼独自の従来の人生と生活というものを無に帰せしめ(4節)、自分の全人生・生活を「神の器」として捧げる決意を促した、8節。罪の贖いをとおして、イザヤは主のみ声を聞いた、「私は誰を遺わそうか。誰が私たちのために行くであろうか」。これに対するイザヤの言葉は実に決然としている。「私がここに、私をお遣わしください」。神に召される人間は、必ずしもイザヤのようではなかった。神に遣わされた時、モーセは尻込みした「私はいったい何者でしょう」(出エジ3:11)「私は言葉の人ではありません。私は口が重く、舌も重いのです」(4:10)。エレミヤも躊躇した「主なる神よ、私はただの若者にすぎません」エレ1~6。これに比べて、イザヤは、私を派遣してくださいと応答した。ここにはイザヤが生来「言葉の人」であることを暗示している。そればかりでなく、イザヤの宗教的な資質、人に対しても神に対しても「自信家で高慢な人物」である感じがあり、先の贖罪体験で、この自信、高慢が取り除かれたのだとみる立場がある、関根。しかし、この「私がここに」はイザヤの贖罪体験そのもの、4節における、従来の自分の存在・人生の「滅びと空無化」と神による自分の存在にまとわりつく罪の赦し、7節とをとおして、自分がいわば生まれ変って、自分のためではなく、神のために、神の器として生きる決意がイザヤの中に生まれたのだと、見たい。
 9節の「行って、語れ、この民に」は神による預言者として派遺の言葉である。「この民」とは単にイスラエルを指しているだけではない。イザヤでは、汚れた唇の民、5節、神に逆らう、頑なな民に意味で用いられている、8~11以下。